きみのお祭り

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書き始めるのに書き終えられない(をなんとかするぞ2023)

最近あまりに文章を書いていない。嘘。書いてはいるのだけど、書き終えないまま下書きにしまい込んであるのがたくさんある。いま数えたら、去年の秋頃から年末にかけて途中のまま下書きに放り込んだ記事が6本あった。正確には、文章を書いていないのではなく、書き終えていないのである。

どうして書き終えられないんだろう?と考えてみて、「湧き出る言葉」で他人に何かを伝えたいという気持ちを持ったことがほとんどなかったからだ、と気がついた。仕事では人に文章の書き方を教えているが、それは「伝えるため」の文章の作法だ。主旨を絞り、説明の内容をまとめて順序だてて、無駄な表現を削り落とし、内容に過不足のない文章を書く技術。目的があり、着地点があり、書き終えることが大前提になっている。自分自身も、そうやって書いた文章を売ることを仕事にしていた時期もあった。

しかし、「湧き出る言葉」で誰かに何かを伝える文章を書いたことは、ほとんどない。

本来わたしにとって書き言葉は、自然と湧き出てくるものである。書き言葉は、伝えたいという欲求や、書こうという意志よりも、もっと前にある。というか、出る。南アルプスの天然水よろしく、出る。だから仕方ない、書き始めてしまう。気がつくといつも始まっている。そういうものなのだ。誰のためでもない。「自分のため」とすら思ったこともない。そんな言葉で「できてしまう」文章は、目的や着地点を持たないし、意図して何かを伝えることを前提としていない。だから、そういう言葉で誰かが読む媒体に書き始めると、適切な終えどころが分からず、文章は空中分解して、散り散りの欠片になってしまう。

書き終えられないもうひとつの理由として考えられるのは、頭のなかに住んでいる「読み手のわたし」の存在である。書き手は最初の読み手でもある。「書き手のわたし」は言葉の通り道であることに集中している。「読み手のわたし」は、「書き手のわたし」を通ってあらわれた言葉の群れが読むに耐え得るものであるかをいつもジャッジしている。

私的な日記は、着地しなくても、文が途中で途切れていても、気にならない。誰にも見せないとわかっているから、頭のなかの「読み手のわたし」もとやかく言わない。けれど、誰かが読む媒体に私的な日記と同じ源から湧いた言葉で文章を書いていると、「読み手のわたし」が頻繁に顔を出し、あれやこれやと口出しをしてくる。「こんなふわふわだらだらした文章を読まれるのは恥ずかしい」という見栄だろうか。「私的な言葉により、否が応でも表されてしまう(ぐちゃぐちゃな)自分を知られるのが恥ずかしい」というプライドだろうか。ともかく、すぐに「うまく書けない」という気持ちになって、文章は行き先を見失ってしまう。

(ほら、いまもすでにどう着地させたらいいかわからなくなっている。「それで……?」と、「読み手のわたし」が不安そうなまなざしでこちらを見ている。そんな目で見られると、「書き手のわたし」は急に自信がなくなって、文字を打つスピードが落ちて、手が止まり、そして「下書きを更新する」ボタンを押すしかなくなるのだ。ごめんよ、読み手のわたし)

わたしにとって書くことは、踊ることや散歩をすることなどに似ている。計画性などなく、思いがけない展開に満ちていて、いつだって動的でなまなましい。たとえばいまだって、この文章を書きながら「頭のなかの読み手」と「書き終えられない」のつながりに気がついたわけで、書き始めたときにそれについて書こうと決めていたわけでは全くない。書かれることによって初めて発想が引き出され、意図しない方向へとアイデアが転がって、広がっていく。「書き手のわたし」はそれを静かにじっと眺めている。踊りがそうであるように、散歩がそうであるように、わたしの書き言葉に終わりはやってこない。

踊るように、散歩をするように、書き散らすことは楽しい。けれども、書き終えられない文章を下書きフォルダに放り込んでおく癖がついてしまったせいで、「気づいたら始まっている言葉」で誰かに伝える文章をどう書いたらいいか、全然わからない。これはちょっと、なんとかしたい。

湧き出る言葉、ほとばしる言葉、気づいたら始まってしまう言葉。そんな言葉だけが持つ熱がある。わたしはこれまで、誰かが書き落としたそれらに何度も照らされ、揺さぶられ、助けられてきた。さて、今度は自分がその熱でロケットを飛ばそう、と思ったとき、端的に「技術が全然足りていない!」と気がついた。あと体力。ロケットを飛ばすのは体力がいる。ほんとうに。この文章だって、書きあげるのに3日くらいかかってる。

あいかわらず、湧き出る書き言葉で他人に何か言いたいことなど特に思い浮かばない。けれども、どうしてかはわからないけれど、書き言葉に遣わされるように生まれついてしまったのだから(誰しも選んでその星まわりを生まれたわけじゃない)、せっかくならこのヘキをいい感じに磨いて、自分の生きている時間を、社会とか、他人とか、自分をいまここに成り立たせている大きいものに還元してもいいんじゃないかと思うようになった。べつに何があったわけでもないけれど。

とりあえず練習しかない。きれいな着地を決められずとも、うまく書けずとも、ひとまず、湧き出る言葉で誰かに伝える文章をなんとか書き終えられるようになろうと思い、キーボードを打ち始めた次第である。「次第である」とか現在進行形で言ってるけど、3日かかってます。すでに。

2023年、がんばってみます。見ていてください。嘘。あんまりじっくり見なくてもいいよ、恥ずかしいから。いやでも、がんばるから、見ててほしいな。今年もよろしくお願いします。

 

※ 久しぶりに書く仕事を再開します。記事や書籍をはじめ、書くこと全般、あるいは、書き方を教える、書き言葉で何かを作るなど、書き言葉にまつわることがあれば、ぜひ気軽に声をかけてください。写真も撮れます。連絡はインスタのメッセンジャーが早いです。

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