きみのお祭り

死ぬまで盛り上がっていけ

死んだ祖母がとても可愛くなっていた

8月の終わり、祖母が亡くなった。ほんとうに突然のことだった。

訃報を受けたのは、仕事の最中だった。母から唐突に「東京のおばあちゃんが亡くなりました」とだけ連絡が入り、あまりの思いがけなさに、目の前の文字が一瞬にして奇妙な線の組み合わせへと分解されたかのような錯覚を覚えた。

「東京のおばあちゃん」とは、父方の祖母である。数年前、夫(つまり祖父)を亡くしてから急激に認知症が進み、それでも毎日ヘルパーさんに来てもらったり、伯母がこまめに足を運ぶなどして頑張っていた。しかしいよいよ独力での生活が立ち行かなくなり、今年の梅雨入り頃に、二子玉川の近くのきれいな老人ホームに入ったばかりだった。えらく金のかかる、しかし人気のある施設だったようである。伯母が見学に行ったら、その場で「つい昨日、急に空き枠ができたが、すでに数人から入居希望の連絡が入っている。今日中の申し込みなら入居枠を押さえることができる」と言われたらしく、あれよあれよという間に入居が決まったのだった。つまりそれは、昨日一人の人が亡くなったということなのだろうが、「そんなノリで入居が決まるんだ」と妙な心持になったのを、つい昨日のことのように覚えている。

祖母はとても素敵な女性だった。もともとはバレーボールの選手であったからか、手足が長く、背筋がしゃんとしていた。ひまわりの花のように笑う、カラッとした気性のひとだった。料理が上手で、遊びに行くと毎度朝から手の凝った料理を作って待っていてくれた。公園にもよく遊びに連れて行ってくれた。とにかく愛情深かった。運動をやっていただけあって、いつもよく動く人だったが、少しおっちょこちょいなところもあった。昔、遊びに連れて行ってくれた公園で小さな川を飛び越えようとして、足をくじいたこともあった(そのとき6歳だったわたしは、大声で助けを呼びながら、祖母を川の淵から力の限り引っ張りあげたのだった)。その後、祖母は何年も繰り返しこの話をしては、「あのときは、びっくりしたねえ」「でも、鹿ちゃんが助けてくれたんだよね」と、ひまわりの笑顔で笑うのだった。

祖母は、認知症でこそあったものの、体は元気だった。おっちょこちょいなので、小さなケガはときどきしていたが、大病もせず、90歳を超えても掘りごたつの座敷席に自力で立ったり座ったりできるほどだった。だから施設に入ったとはいえ、何の前触れもなく祖母が死んだと聞いたとき、何かの間違いではないかと思った。つい先週も、実家の家族が様子を見に行って、元気そうだったと聞いたところだったのに。

祖母は、死に方も祖母らしかった。いつもと変わらずに朝ご飯を食べ、数十分後に看護師が朝の体調チェックに来た。そのとき、心拍が少し弱くなっていたため、施設は念のためと伯母に連絡をして、救急車を呼んだ。その時点では会話も普通にしていたらしい。しかし、救急車が来たときにはすでに心肺が止まっており、蘇生措置を施されるも、息を吹き返すことなくそのまま亡くなった。ついさっきまでいつも通りの日常を過ごしていたのに、ほんの数十分のあいだに苦しむことなく、まさに「お迎えが来た」ような鮮やかさで、この世界からいなくなってしまった。伯母も、「少し心拍が弱いので、これから病院に連れていきます。できればすぐ来てもらえないでしょうか」という電話をもらった30分後に施設に駆け込んだら、まさか目の前で心臓マッサージをされているとは思いもしなかったと言った。

余談だが、この伯母のこともわたしは大好きである。目鼻立ちのくっきりした美人で、いつもきっぱりした口調で喋り、せっかちで、好き嫌いがはっきりしており、服やメイクのセンスが抜群にいい。祖父が亡くなったとき、葬儀の打ち合わせで式場スタッフに「お花の色はどうしますか?男性なら、青や紫がおすすめですが…」と言われた彼女は、「そんな辛気臭い色はイヤ。一面ピンクの祭壇にするのはどう?」と言い放ち、結果、祖父はピンクのガーベラやらカーネーションやらに囲まれて旅立った。しかしその祭壇は祖父の温かさや優しさを映しているかのようで、とてもいいものだった。祖母がひまわりならば、伯母は大輪の真っ白な百合である。

祖母の葬儀は、5日後となった。気持ちの整理もつかぬまま、慶弔休暇を慌ただしく申請し、クローゼットの奥に押し込んでいた喪服を引っ張り出した。東北へ単身赴任中の父も、折よく亡くなった当日に東京に戻ってくることができ、そこから葬儀の日までは、伯母とともに東奔西走していた。

葬儀の当日、朝から灼けるような暑さの中、実家の家族と車に乗って葬儀場に着いた。前日の湯灌には伯母と父が立ち会っていたが、それ以外の家族はその日、亡くなった祖母と初めて対面するのだった。顔を見たら悲しくなってしまうだろうなと思い、棺の前に来ても、しばらくどうしても中を見る気になれなかった。しかし、最後のお別れでまともに顔を見ずに送り出して、後悔したくはない。やっと意を決して、母と妹と、3人で棺のなかを覗き込んだ。

顔を覗いて、一同、しばらく無言になった。

そこにいたのは、祖母ではあった。が、ぱっと見で祖母とあまり思えない面立ちをした人だった。じっと見れば、こめかみの曲線や、額の広さや、鼻筋や、顎のかたちの一つひとつは祖母なのだが、それらがまとまった集合体としての顔が、どうにも祖母とは思われないような印象を受けた。なんというか、全体的に雰囲気が少女のようで、ちょっとドリーミーなのだ。生きていた祖母がひまわりならば、死んだ祖母はマーガレットのようだった。

「おばあちゃんって、こんな顔だったっけ…?」

と思わず声を漏らすと、母と妹は、半笑いとも何ともつかぬ顔になって

「おばあちゃん、だよねえ…?」
「まさか間違いってことはないと思うけど…」

と言い合った。

棺桶の中で人が間違っていたらおおごとである。そんなわけはないという思いと、しかし、目の前の死に化粧を施された顔がどうにもすぐには祖母と思えないという事実とのあいだで、わたしたちはどんな感想を持っていいのかわからず、悲しみどころをうっかり逃して、横たわった祖母を眺めていた。

そこに、伯母一家が到着した。せかせかと大股で歩いてきた伯母は、こちらを見てニコッと微笑み、「来てくれてありがとうね!」と大きな声で言った。そして、棺の前に立つわたしたちを見て、

ね、お母さん、すごくかわいくなったでしょ? ちょっとね、暑さもあって、お顔の崩れが気になったから、納棺師さんにお願いして、お化粧をね、すごく可愛くしてもらったの。お母さんって、あんまり化粧しない人だったから、メイクするとこんなに変わるんだ!って、もーびっくりしちゃって。あたし、途中からちょっと楽しくなっちゃって、色々注文つけたら、こんなに綺麗にしてもらって。せっかく最後だからね。ちょっと可愛くなりすぎちゃったかしら。でも、いいわよね」

と、百合の笑顔で言った。

その言葉を聞いて、笑ってしまって脱力すると同時に、悲しみがようやく胸の中に染み込んできた。「おばあちゃんが急に死んじゃってさ、びっくりして、悲しかったんだけど、でも、死に顔がすごく可愛くなってて、最初別の人なんじゃないかって思ってちょっとみんなで笑っちゃってさ、でもやっぱり、死んだのはわたしのおばあちゃんで…」という一連の出来事は、わたしにとって、少しおかしくて、とても悲しいことだった。

葬儀はつつがなく進行した。火葬室のなかに棺が入れられる直前、女性陣はぽろぽろ涙をこぼして祖母の額や頬に触れ、男性陣は別れの言葉を呟いた。わたしは、顔だけもう一度見て、泣きもせず、触れもせず、言葉もかけず、祖母を見送った。それがそのときの自分にできた、精一杯の見送りだった。

1時間半ほどして、祖母は銀色の台に乗せられて帰ってきた。両手を広げたほどの面積の中に、祖母のすべてが収まっていた。式場のスタッフが、大きく太い骨を丁寧につまみあげ、「こちらは大腿骨です。女性にしてはかなり大きく、立派ですね。しっかりしたお骨です」と説明してくれた。

手際よく骨をかき集めるスタッフを見ながら、ふと祖父の葬儀でのある場面を思い出した。

祖父が亡くなったとき、わたしたちは同じように、火葬室の扉の前にいた。祖母はそこで最後に祖父の額に触れ、「つめたいつめたい、つめたーい」と子どものような声で小さく呟いた。誰に聞かせるでもない、独り言のような響きだった。そして、無機質な扉が閉まると、泣きはらした顔をふっと上げ、「あーあ、こんなときでも、お腹は空くね」と、わたしのほうを向いてにっこりと笑ったのだった。あのときわたしは、なんと返したらいいのかわからず、黙って祖母の目を見つめ返すしかできなかった。

祖母の棺に花を入れたとき、ほんの一瞬触れた首元はやはり冷たかった。そしてわたしも、あの扉が閉まったとき、確かにお腹を空かせていた。わたしは数年越しに「ほんとうにそうだね」と心の中で微笑みを返し、真夏の陽のもと、祖母の肋骨を壺に収めた。

最近のこと

久しぶりに書くので何から書けばいいのか分からないけれど、最近のこと。

 

最近嬉しかったこと

・いとこが愛嬌のある白い犬を飼い始めたこと。

・夫がわたしの好きなマスコットをUFOキャッチャーで取ってくれたこと。

・以前よりもちゃんと眠れるようになって、昼寝までできるようになったこと。

・ご飯をちゃんと食べられるようになったこと。

・そのせいか、肌や体の調子がよくなったこと。

・大勢でした遠出を、大勢とちゃんと楽しめたこと。

・自由行動の時間、好きな先輩に「一緒に回ろう」と声をかけてもらって、半日二人で楽しい思い出を作れたこと。

・そのときに見た海が、あまりにも青くて、綺麗で、広くて、ずっと光っていたこと。

・そのとき食べたポキ丼なるご飯が、とてもおいしかったこと。

・踊ることがまたひとつ、きっと好きになっていること。

・近所のお祭りの音を聞きながら、こうやって最近のことをゆっくり振り返っていること。

 

最近悲しかったこと

・身内が二人続けて突然死んでしまったこと。

・そのせいで、母の発する「おかーあさん」という明るい声がもう二度と聞けなくなってしまったこと。

・髪の毛が突然たくさん抜けるようになってしまったこと。

・仕事の意味や信念を見失いかけてしまっていること。

・左ひざの外側の調子がずっと悪いこと。

・泊まりたかった宿の予約が取れなかったこと。

・久しぶりに会おうと声をかけてくれた人が、日程調整の段でずっと既読スルーしてくること。

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犬のすがたを知る人の絵

若菜真穂は、犬、それも、ダックスフントについてよく知っている。その犬と暮らした人でなければわからない、とても小さなことをよく知っていて、それを絵ということばにできる人だ。


ずっと前に死んでしまったわたしの犬も、おそらくダックスフントだった。拾ってきた犬なので、ほんとうにそうかと言われれば少し怪しいが、どの犬種が一番近いかと言われれば、一目でダックスフントと答えられるくらいにはダックスフントであった。たぶん、少し小型の。

 

これはダックスフントと言ってもまあいいでしょう

だからわたしには、若菜真穂の言葉がよくわかった。彼女はダックスフントという犬を絵のモチーフにしながら、その実、犬そのものより、その犬と過ごす人間側に流れる時間、その犬と人間との間合いを描くことに長けた人だと思った。

 

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Distance

犬には、こちらに来ると見せかけて、微妙な距離で必ず一旦立ち止まる癖があった。嬉しくても、どうでもよくても。嬉しいときは、立ち止まって姿勢を低くして、試すような上目遣いで少し唸り、その場でぴょこぴょこジャンプする。興味があるだけのときは、立ち止まって、じっと見て、少しすると、やや軽快な足取りで寄ってくる。あまり興味がないときは、立ち止まったあと、少し下を向いたりまばたきしたりして、しばらくすると観念したかのようにのそのそとそばに来るか、その場でふせをして上目遣いにじっとこちらを見つめる。この絵は、おそらく3つ目のパターンのとき。きっとこのあとふせをする。

 

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ここにいる

犬は、ちょっと無愛想なやつだった。子犬の頃は世界の新鮮さに何でも喜んだが、成犬になったら妙な落ち着きを醸し出し始め、はしゃぐということをあまりしなかった。遠くにいる彼に、おいで、と手を伸ばすと、途中までは早足で来て、微妙な距離で立ち止まる。すこしこちらを見てから、目を合わさずにわたしの広げた腕の横をゆっくり通り抜けていく。食えないやつだなと思っていた。

しかしわたしが床に座って本を読んだりぼーっとしたりしていると、犬は大抵こちらにそろりそろりと歩いてくる。しかしここで彼の方を向いてはいけない。目が合うと、ぴたりと微妙な距離感で止まりその場で伏せるか、あるいは、まるで「もともと興味なんてありませんけど」みたいな顔をして、踵を返してどこかへ行ってしまう。だからあえて気が付かないふりをして、近づいてくる犬を待つ。すると、ゆっくりゆっくり歩いてきた彼は、ちょこんと自分のお尻をわたしの尻にくっつけて、そうして顔はわたしと反対を向いて、その場でふせをする。そのとき初めて気がついたかのように犬の顔を見て、「あれ」と言う。すると犬は、目を合わせないように向こうを向いたまま、「ここにいる」の顔をする。

 

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記憶の質感

ダックスフントは、胴が長くて首の詰まった犬である。だから必然人間が彼を見るときは、鼻の先からしっぽの先まで一本の棒を眺めているようになる。そんな角度で見ることのできる犬はほかにいない。あまりに長細いので、わたしは拾ってきた彼に、あるスパゲッティの名を与えた。犬は死ぬまでその名を全うした。

きみの胴体はもっと短かったような気もするし、長かったような気もする。けれど、顎をすこし横にずらして、どこかを見ているのか、はたまた寝ているのかわからないその後ろ姿を何度見たことか。かわいいスパゲッティ。きみはとても長いから、まっすぐのまま伏せていると、背中や首が痛くなってくるのだろうか。生きものが、その形状上そうとしかあれない姿で寝たり起きたりしているところは、とても愛おしい。そういうことを、わたしはきみに教えてもらった。

犬の寝ていたところには、いつも細長いぬくもりが残された。きみと同じかたちに床が温かかったことさえ、いまではたまらなく懐かしい。

 

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不在

犬が死んだ日、視界のすべてから色が抜けてしまった。風景に奥行きがなくなって、質感もなくなって、何か薄い布越しに景色が見えているようだった。覚えているのは、風のにおい。あの日、空は真冬のよく乾いた晴天で、西陽に照らされながら、わたしたちはみんなで彼の身体を毛布にくるんで病院から家まで歩いて連れて帰った。風が強く吹いている日だった。

死んだのに、どこかしこにも犬がいた。彼はベランダのそばにいた。彼は毛布のなかにいた。彼はテーブルの下にいた。いなくなってしまったのに、全部の場所に犬がいた。

魂というものがあるのだとしたら、それは「咲く」という言葉がよく似合うと思った。死んだ者のすがたかたちがなくなっても、生きた者には共に過ごした時間が残される。それはもうここに存在しない時間だからこそ、どこに行っても、何をしていても、いつまでもうつくしく、みずみずしく咲き続け、生きている者を照らしてくれる。そういうことを、きみはわたしに教えてくれた。死んだ後も、わたしの犬は賢くていい子だと思った。

生きている者が亡くなった者を思うとき、天界では、彼の頭のうえに花が降るという。わたしは、犬に息ができないほどの花を降らせただろうか。彼はその花のなかで、あまり興味がなさそうな、それでいてどこか人をちゃんと信じているようなあの目で、こちらを見つめてくれているだろうか。

今年も春が来た。ほんものの花が、生きているわたしへと降り注ぐ道を歩きながら、またいつか犬と一緒にこんな道を歩きたいと思った。

お年玉をもらい、餅を食べ忘れた正月

年末年始9連休。長かったようであっという間。ただの日記です。

振り返り

27日、仕事納め。夜は夫と忘年会。ちょっと良いフレンチをごちそうになる。目の前で実演調理してくれるタイプのデザートに興奮する。
29日、会社の先輩と忘年会。一足早く蕎麦。2件目にふらっと入ったミスドでも延々喋り、それでも話し足りず、先輩の家の近くまで歩きながら喋る。寒さも暗さも街の明かりも、ザ・年末の夜という感じですごくよかった。
31日、父方の祖母宅へ。こちらの祖母も認知症がだいぶ進んでおり、初見でわたしのことを思い出せなかったが、名乗るとすぐに思い出してくれた。
合間合間で自宅の大掃除、大片付け。蕎麦の準備や祖母宅の片付けに加え、手土産やら正月飾りやらを買いそろえるために東奔西走。
1日、真夜中にお祓い(今年は前厄)、午前中は明治神宮へ初詣、午後は夫の実家へ。転職前は年末年始に休みがない仕事だったので、会うのは3年ぶりくらい。箱根ロマンスカーに乗ってうれしかった。
2日、自分の実家へ。実家家族だけで正月のごちそうやお雑煮を食べる。30歳になったのにお年玉をもらった。
3日、急遽夫とわたしとわたしの実家家族でご飯を食べることに。4日が母の誕生日だったが、前倒しして。本当は鰻などご馳走したかったが、いい加減皆正月疲れしており、近所のよく行く町中華へ。
4日、スタジオで今年初のレッスン。夕方、久しぶりにいつもの時間にいつものコースを走りに行けて、見えた空がすばらしかった。やっと2025年が来たと実感した。

心の初日の出(夕日)

我ながら、よく風邪ひとつ引かず乗り切ったと思う。正月早々ギアを上げすぎて社交体力がゼロになりかかっている。明日仕事初めなのに。でも体と気持ちは元気なので、明日からも変わらず、粛々と。

日々の走り書き

  • 厄年が始まるのでここから3年間は毎年お祓いだな・・・と思っていたが、厄年の由来は「33歳」と「散々」をかけているらしく、なんだか脱力してしまった。何年か前に変な男に引っかかって精神が闇落ちしたり、数週間のうちに2回大きめの事故に遭い救急車に運ばれたりしているので、あれで厄年は終わったと願いたい。
  • もらったお年玉は母の誕生日プレゼントや父への手土産、夫実家への手土産や交通費に充てた。ラッキーで得た財は全部まわりに回すに限る。
  • 父と夫が会うのも数年ぶりだったが、おそらく今までのなかで一番夫も実家家族も腹を割って話をしており、よかった。家族同士は、近すぎず遠すぎず、配慮はしても遠慮の少ない関係がちょうどいい。
  • ユニクロのフリースってめちゃくちゃ暖かいんだなと気づく。一枚着るだけで体の冷えがまるで違い、とても元気に過ごせた。というか、冬の体ってこんなに冷えてたんだね……?と気づいた。生まれて30年経つのに。
  • 数年前に夫に貰ったトラッパーハットも大活躍。頭から耳にかけて覆われていると、暖かいだけでなく音がやや聞こえづらくなり、安心する。大きな音が苦手だけどあの黄色のイヤーマフは目立つからイヤという人は、ぜひノイキャンイヤホン+トラッパーハットを試してみてほしい。冬限定だけど。
  • ここ一週間、びっくりするほど食欲が落ち着き、かなり身体が楽。ときどき突発的に起こっていた渇きのような食欲と暴食は、やはり仕事のストレスなのだなと実感した。仕事や職場が悪いのではなく、仕事に対する自分自身の姿勢の問題なので、2025年はこのストレスとうまく付き合って、心身を荒ぶらせないことが目標のひとつ。
  • 子どもの頃、親族が集まって外食をすると、大人たちがレジ前で必ず「ここはうちが」合戦をしているのを見て、なんて不毛なんだろうと思っていた。しかし自分が大人になってみて、あれは必要な茶番であると最近分かってきた。特に子と親間でやるあれは、「今日は楽しい場をありがとう」「おかげさまで経済的にもちゃんと自立しました」「いつもお世話になっています」「これまでありがとう」「また会いましょう」「あなたたちとこれからも良い関係を続ける気があります」みたいな意味合いを含んでおり、いわば社交の儀式のひとつなのだね。
  • 積読を4冊ほどしっかり消化できたことが地味にうれしい。馴染みのジャズ喫茶で2時間ずっと本だけを読んでいた時間が、この年末年始でもっとも幸福度が高かったかもしれない。
  • そういえば正月なのに餅をほぼ食べなかった。みかんもまだ食べていない。年々季節の行事に対する感度が下がってきている気がする。2025年は暮らし一つひとつもう少し丁寧に楽しめるようにしたい。

2024年振り返り

これまで自覚したことがなかったが、12月という月が好きだなと最近気づいた。年末に向けていろいろなことが加速して飛び込んでいく感じとか、早朝に空気がぱきぱきと音を立てるように凍っていくところとか、午後4時には太陽が蜂蜜色に輝いているところとか、その背景に全てを許してくれそうな深い色の空が大きく広がっているところとか。そういうのが全部とても好きだ。

大掃除だからカーテンも洗っちゃう

今年も楽しかったね

2024年を一言でまとめるなら、全力疾走。走りたいという気持ちと、走るべき道が目の前に現れて、とにかく体力の限り走って走って走って、気づいたら2025年とさらにその先につながるような助走になっていた。ゴールが見えるから走ったのではなく、ゴールが見えなくても今は走ろうと思えるくらい目の前のことが楽しくて悔しくてどうしようもなく、そういう感情を人生に余すところなくすべて注ぎ込めた。幸せな一年だったと思う。

代わりに、今年は去年までと比べてしなかったことやできなかったことがとても多かった。遠ざかったともいうべきか。何かに全betするならばそれ以外のことは手放さざるを得なくなるということがよくわかった一年でもあった。けれどもそれは未来永劫もうやらないということではなく、「とりあえず今はやらない」くらいでいいのだ、きっと。縁があればまた手元に戻ってくることもある。

以下、思いつくままに今年の振り返りを書いてみる。

 

仕事

今年何に全力を注ぎ込んだかと訊かれれば、間違いなく仕事である。2023年の春に転職して、やっと一通り仕事の流れに慣れて、独り立ちできた2年目。

と同時に、自分の意識していなかった部分を他人に見つけてもらい、光を当ててもらえた年でもあった。自分の持つある側面が実はとても素敵なものなのだと教えてもらえたこと、そこに期待をかけられ、役割を与えてもらったこと。具体的には、夏にマネージャーへの打診を貰い、秋から自分のチームを持つようになったことが、今年最も印象的な出来事だった。メンバーの暮らしや人生に責任を負う立場になって、見える景色が全然変わった。「わたし」よりも、「わたしたち」が大事になった。「わたしがどう思うか」より「目の前のあなたに何が見えているか」と「わたしたちは何を見失ってはいけないか」が最大の関心ごとになった。それは自分の気持ちや考えを抑圧することとは違う。優先順位がごく自然と変わり、「自分」と「自分以外」という二項対立ではない見方で物事が見えるようになった。表現が難しいが、30年間生きてきて初めて経験するような視界の反転であり、その先に見える景色はこれまで見たことのないほど面白いものだった。

まだチームが走り始めて間もないが、自分が社会に参加することの歓びと、自分以外への存在に社会的な責任を負うということの重みを少しずつ感じ始めている。来年やその先は、きっともっとチャレンジングでそのぶんもっと面白くなると予感している。

あと、昇格に伴って収入がしっかり上がったことがシンプルにうれしい。口だけの期待や名前だけの肩書きでなく、ちゃんと数字でも評価されるとこんなにモチベーションになるんだなとわかった。来年はこれまでよりももっと良いお金の使い方をしたい。

 

趣味

今年の春から、人生で初めて「ダンス」を始めた。これまでも、サンバやタップダンス、民族舞踊など、何かと身体芸術に触れてはきていたが、ここにきて王道のヒップホップダンスを始めた。体の使い方がこれまでやってきた何とも全然違い、始めて数か月はまったく踊れなかった。前で教えてくれる先生の真似をしても、わたしがやっていることは「ダンス」ではなくどこまでも「体操」なのだ。同じところに足を出して、同じ方向に腕を上げているのに、それはなかなか「ダンス」にならない。仕事終わりにスタジオに駆け込んで練習を重ねてもなかなか上達が感じられず、秋口には心が折れかけた。

それでも、憧れの先生の途方もなくうつくしい動きを間近で見て感じたり、自分の身体がのびやかに動くことや、音楽とひとつになって考えるよりも先に身体が表現を始めることが楽しくて、なんだか続けてしまった。今も続けていて、昨日がスタジオでの年内踊り納めだった。最近になってやっと、内側の筋肉の動きや細かい指先や足先の動きにも気が配れるようになり始め、ほんとうにほんの少しだけ「ダンス」のかたちが表れてきたような気がしなくもない。難しいけれど、楽しい。来年も時間の許す限りやっていきたい。

ダンスにしっかりハマった代償(?)に、今年はそれ以外の趣味にほぼ時間を割けなかった。映画も美術館も片手で数えるほどしか行っていないし、山にもほとんど登らなかった。写真も旅先でしか撮らないし、撮りに行くための遠出もしていない。旅行は、行ったには行ったが、ここ数年のような、日常の少し延長線上にあるような自由気ままな旅というより、何か月も前から予定をきっちり押さえて、「ここだけは日常を完全に離れる」と心を決めて臨むような仕方で旅行をしていた。

来年、自分の趣味どうなるかはまだわからない。引き続き同じペースでダンスにハマっているのかもしれないし、もう少し違った時間の使い方をするかもしれない。いずれにせよ、好きなことをして健全な心身を保つために、時間とお金を惜しみなく使いたい。

ムーミン谷を歩いた

晩秋の松島

冬の太平洋は明るい

家族

夫とは結婚5年目になった。人生の1/6を一緒に過ごしたことになる。
今年は仕事とダンスに全振りをしたので、夫と過ごす時間も減った。彼は彼でキックボクシングを始めて、休日を丸一日一緒に過ごすことはほぼなかった。それでも、彼が休みの日にはときどきケーキを買ってきてくれたり、ダンスのレッスンがない日は夕ご飯の後に一緒に本屋に行ってそれからスタバに行ったり、旅行先で一緒に山に登ってくれたり、折々で一緒に過ごす時間を作ってくれた。ささやかな日々の時間のなかには、豊かな幸福が確かに存在していた。

夫と暮らし始めてから、比喩ではなくわたしの人生はかなり変わった。精神が安定し、他人の気持ちに想像を巡らせられるようになり、持っていた力をより発揮できるようになった。彼は、長年わたしが抱えていた化け物のような闇を抱きしめるでも遠ざけるでもなく、甘やかすでも叱咤するでもなく、ただ静かにまなざしを向け続け、必要なときは黙って手を差し伸べてくれる。悪意がなくとも人は人を傷つけてしまうことがあることや、ときどきそうした行き違いが起ころうとも世界は敵ではないのだということを、言葉と、言語ではない言葉でたくさん教えてくれた。
わたしたちは結婚するとき、お互いに運命のようなものは全く感じていなかったし、何なら互いに顔のタイプとも違うし、性格も趣味も考え方も真反対のところがたくさんある。それでもわたしはこの人生で彼をパートナーとして選んだことが最善の選択だったと信じて疑わないし、彼に見つけてもらったことが最良の縁だったと心から思う。結婚してから昨日より嫌いになった日は一日もない(喧嘩はめちゃくちゃする、最近は少し減った)。夫が、「どうしても人間と一緒に暮らしてみたい。すぐダメになってしまうかもしれないが、人生の少しだけの時間、わたしが他人と一緒に暮らせるかの実験に付き合ってほしい」というとんでもないワガママに付き合ってくれたこと、そしてつらいときも楽しいときも一緒に時間を積み重ねてくれたこと、そのなかでたくさんのものを与えてくれたことに、心から感謝している。

それから、家族のことでもうひとつ。この日記に時々登場していた祖母は、とうとうわたしのことを知らない世界へと足を踏み入れた。元気ではいるが、もうわたしのことも猫のことも、実の娘である母のこともわからなくなった。このあいだ久しぶりに会いに行ったら、テーブルに並べたいっぱいの折り紙を丁寧に一つずつ並べ替えて、布巾を何度も折りたたんでいた。昼寝を嫌い掃除を好んだ祖母らしく、整えておくことが好きらしい。ほとんど何も会話らしい会話はしなかったが、わたしが重ねた手をきゅっと握って、あのオレンジがかった輝く瞳でニコッと笑って、「あったかい」「気持ちいいねえ」と言ってくれたことがうれしかった。できることは限られているが、残り少ないであろう時間のなか、一つでも多くうれしいとか楽しいとか、そう感じてくれる瞬間を増やせる手伝いができたらいいなと思っている。

ばあちゃんを頼むよ

2024年夏、日記

ブログを書くのが実に2月以来ということにびっくりしている。そんなに経った? 冬も春も初夏も過ぎて気づけば晩夏。今日で夏とはさよならですよ。今夜は夏のありがとう会をするべく、ビールに町中華です。

 

240714-16

海の日の三連休を使って香川へ。梅雨明けにはぎりぎり間に合わず。けれども雨の旅行なんて機会はなかなかないのでおもしろかった。晴れていればもちろんうれしいし、雨なら見たことのない景色が見られるからうれしい。雨だから楽しくない、なんてことはひとつもなかった。

丸亀城、小豆島、動物園。イルカと瀬戸内海も泳いだ。

丸亀城は2年ぶり。あいかわらず小さくてかわいらしかった。初めて中に入ったが、無駄な柱が多く空間を圧迫しまくっており、このお城を作った人はあまり建築がうまくないのではと思った。

小豆島はおしゃれに観光地化されているところよりも、そことは反対側の山が崩されて石がたくさん切り出されているところのほうがおもしろかった。小豆島の石はその昔、大阪城築城にあたっての石垣にも使われたらしい。その名残なのか、島の東側には今も石材の業者が多い。そのほか、オリーブ、醤油、そうめん、佃煮など、面積に対して発展した産業の数がかなり多い。なんだか事情の多そうな島だな〜と思った。

 

240722

今年初めてのスイカを食べた。八百屋の冷蔵庫に8分の1に切られたスイカが鎮座しており、思わず手が伸びた。398円也。炎天下、一緒に買った葉物やトマトをつぶさずにでっかいスイカを持って帰るのは苦労した。帰ってそれをさらに半分に切って夫と二人で食べた。「夏の食べ物だね」という感想だけを言いあった。それだけで十分だった。

 

240725

近所の公園で盆踊り大会があった。夕立がやむのを待ってもたもたしていたら家を出るのがぎりぎりになってしまった。最後の一曲に間に合って、さあ踊るぞと腕を上げたら、和風にアレンジされたレッチリが爆音で流れはじめ、笑ってしまった。老いも若きもいろんな人がいろんな顔で、なんとなく同じような違っているような動きをしながらゆっくりぐるぐるやぐらのまわりを廻る。やぐらの上では本物の踊り手たちと和太鼓が汗びっしょりになってやっている。夜と熱をお祭りの白熱灯がきらきらと照らしている。走馬灯に出てきそうだな、と思った。

 

240728

人と何かをするのも、人といるのもとにかくずっと苦手だった。最近、やっと人と何かを「すること」は楽しめるようになった。本当に遅まきながらだけど、純粋にうれしい。
人とただ「いること」はまだあまりうまくできない。でも、できなくてもさみしくていいし(できないからさみしさを感じてはいけない、なんてことは決してない)、そのさみしさは「人と何かをすることを楽しいと思う」とは矛盾せずに両立する、と最近わかった。たぶん、ほとんどの人はこれを読んでも何を言っているかよくわからないと思う。日記なので許してほしい。

 

240731

四川中華の素晴らしいコースとワインや紹興酒のペアリングをいただいた。前菜3品は音楽のように流れていく。食材、見た目、食感、いずれも夏にぴったりの涼を感じさせる作り。4品目で勝負を仕掛けられた。(と、ここまで書いて日記は途切れている。すごい体験だったのだけど)

 

240803

まだ暑いことに変わりはないが、8月に入った途端に風の感じが急に変わった気がする。秋に向かいはじめている。とはいえ、日の出ている時間帯は固形物を食べる気にまったくなれない。これが夏バテか、と初めて知る夏。なんとか生き延びたい。

 

240810

最近、朝がつらくなってきた。起きてもしばらく動けないので、ストレッチか瞑想をするのだが、終わるとそのまま横になってしまう。でも少し安心もしている。むしろ起きて10分で身支度だけして走り出していた今までのほうがおかしかったのだ。仕事と職場を変えて一年数か月経ち、環境に少しずつ慣れてきたためか、この頃やっとちゃんと「疲れた」と感じられるようになってきた。そして、疲れたと感じる自分を許せるようになりつつあるように思う。

 

240815-16

久しぶりに盛大な風邪をひいた。39度近い熱が出た。食欲はないが栄養ゼリーやプリンなどは口にできるので、目が覚めたわずかな時間にかっ込み、戦に備える。「勝負!」という気持ちと、「やっと骨を休められる」という気持ち。ひたすら眠る。シーツもベッドパットも通り越してマットレスまで濡れるほど汗をかき、高熱は一日で下がった。

さすがに翌日はまだ体を縦にしておくことがしんどく、最低限の事務処理と連絡だけをして、仕事は早々に引き上げた。熱は下がったものの全身が痛くて眠れず、朝夜でバファリンを2錠ずつ飲む。体は一時的にしんどいが、こういう強い出来事がときどき起こり、そうやって強固で厄介な習慣を少しずつ抜いていくことができる。良いタイミングだったと思う。

 

240820

すっかり回復した。回復以降、無理な運動をやめられるようになった。朝ごはんも少し食べられるようになった。自分の体に合わせた行動を抵抗感なくできるようになったことがうれしい。

 

240822-25

北海道へ。遅めの夏休みで夏を終わらせる。風邪が一週間前でほんとうによかったと思う。

直前まで天気予報を見て一喜一憂していたが、雨にはほとんど降られなかった。天気に恵まれたと思う。馬に乗る。カヌーに乗る。火山帯を歩く。湖を見る。北国の暮らしや人々の心を知る。



この旅行は余暇の息抜き以上の意義のあるものだった。今住んでいる場所は気に入っているけれども、やっぱり自分は、大きな自然がそばにないとだめなのだなと分かった。

 

240831

ついに8月最終日。台風10号の被害が痛ましい。この台風がいってしまったら、ほんとうの秋になる。今年の夏はいろいろあったし、いろいろした。仕事でも大きな出来事がひとつあった。10年後くらいに振り返ったとき、「30歳の夏はターニングポイントだったな」とたぶん思うと思う。10年後のお楽しみにしておきたい。意味深な書き方だけになってしまったが、許してほしい。日記だから。

三十にして立たされる

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30歳になった。

生きていくこと。あらゆる可能性のなかへと投げ出されると同時に、転がりこんだ先以外のすべての可能性が否応なく排除される運動の連続。生きているというのがどういうことかは未だまったくわからないけれど、波のような運動の繰り返しが自分をいつもここに在らしめているということだけはわかる。意志によって生きているようでいて、「生かされている」としか言いようがない。転がった先が一つ違っていれば、ここにはいなかった。誕生日を迎えるたび、おめでとうともありがとうとも違う不思議な心持ちになる。

三十にして立つと聞く。自立をしていける頃らしい。ふと、自立とは自分の意志の力で立つことではなく、立ち上がる準備を済ませることで「自然と立たされる」ことなのではと思った。気流を掴んで、空を遠く流れてゆく鳥のように。

もがいてきた20代だった。体力筋力は多少ついたが、力むのが多少疲れるようになってきた。頑張って何かを思い通りにしても、必ずしも満足できるわけではないこともわかってきた。

だからここからは、少しずつ脱力していこうと思う。意志の力でもがくのではなく、風に乗るように生きていきたい。そうすれば、非力な自力でどうにかしようとしてきたこれまでは想像しえなかった可能性へ、また転がっていけることでしょう。

その道のりが幸い多きことを願って、30歳初日の日記とする。