きみのお祭り

死ぬまで盛り上がっていけ

なにかになりきる、ということ

 

毎日短くてもいいからインターネットに文章を残していく期間、再開。書かなかった理由はシンプルで、インターネット上におもしろいと感じられる文章をここ数ヶ月全然見つけられなくて、嫌になって、でもじゃあお前はおもしろい文章が書けるのか?と自問自答したら怖くなってしまったから。考えに考え抜いて地べたを這いずり回ったり、最近知り合った編集者のひとにいろいろと相談に乗ってもらったりした結果、「おもしろいかどうかは読み手に委ねればいい」という割り切りが腹落ちして導けた。なので、気負うことなく書きます。ここはわたしの庭でいい。都会の谷にある、誰も訪れないちいさな庭。

 

今日たまたま、ギターをやっている友だちがライブでのソロの映像をツイッターにあげていて、それがすごくよかった。

 

 

わたしは音楽の素養をまったく持っていないので、技術がどうとか、使っている楽器がどうとか、音楽そのものがどうとか、そういうのはぜんぜんわからない(5回くらい見たけど、手元がすごくいそがしそうでギュンギュンした音が出てるな、とだけ思う)。

だけどこの動画をすごくすきなのは、ツイートにある言葉通り、この時間と空間のなかで彼は100%ギターヒーローだったんだろうな、ということが、もう、見ている側にもありあまるくらい伝わってきたから。勝手に笑顔になっちゃうくらいに。髪を振り乱して全身をグラグラ揺らして、沸騰しそうなギターヒーロー

 

10歳くらいまで、わたしは毎日いろいろなものに変身していた。プラスチック製のモンスターボールピカチュウのぬいぐるみがあればポケモンマスターだったし、道路に落ちている透明なBB弾は神さまから選ばれた秘密の証だったし、家庭科の時間にデタラメに縫った布はいつか飼う犬のためのバンダナだった。その後まさかほんとうに犬を拾うとは思わなかったけれど。なりたいものそのものになりきるのはとても簡単で、たのしくて、ワクワクした。それだけで毎日がおもしろかった。どうせなれないとか、いつかなれるのかなとか、そんなことすら考えず、ただただ「今日のわたしはこれ!」と何かになりきって遊ぶのが、とてもたのしかったのだ。

 

熊谷くんの動画を見て、ああ、あの頃のわたしもきっとこんな気持ちだったのかなあとなつかしくなった。いまはもうずいぶん、なにかになりきる気持ちを忘れてしまっている気がする。思い出したい、と素直に思った。熊谷くん、きみはもう120%ギターヒーローで、ロックスターだよ。かっこいい。ありがとう。

万引き家族 感想メモ

万引き家族、観てきた。映画を観ること自体ひさしぶりで、何を観ようか迷ったんだけど、とりあえず手近なところで、という気持ちで観たので、特に事前情報などは仕入れず、期待も持たず。

 

久しぶりに映画を観たせいなのか、それともこの映画であるからそう感じたのかはわからないけれど、「これを人に伝えたい」という思いで差し出されたものを素直に受け取るのってむずかしいなあと思った。なんというか、論評されたり批判される要素がこれでもかというほど詰め込まれていて、胸焼けした、というのが個人的な感想。途中から中身についていくのに疲れてしまい、樹木希林安藤サクラ、子役の佐々木みゆの一挙手一投足にばかり注目していた。この映画は女性俳優たちの演技がものすごくよかった。過剰すぎない、自然すぎない、不自然すぎない、語りすぎない。うるさくないのが一番だ。松岡茉優はかわいかったけれど、役がハマりすぎて知育玩具のおもちゃみたいな感じ。

 

おそらくこの映画は、いろいろな文脈からいろいろな論評や批判をされるのだろうし、監督もそれを望んでいるのだと思う。じゃなきゃこんなにも描く生活にリアルさを追求しなかっただろうし、論点もたくさん詰め込まなかったはず。頭のいい人たちが、この映画のなかで描かれた社会問題とか、共同体の構造とか、そういうものについてここぞとばかりにインターネットで持論を書き綴るのが目に見える。だけどわたしはすごくひねくれているので、そういった批判の機会みたいなのを与えられてしまうと、すごく戸惑う。作品から何を受け取るかはわたしの自由であって、そこに作り手の「ここを見てください!」が入ると、すごく萎えてしまう。ツアーバスと一緒。右手にかの有名な観覧車がございまーす!というやつだ。ツアーバスと違うのは、差し出されたコンテンツは消費されるだけでなく、そのさきもどんどん人の手によってさまざまなかたちをとって積み重なっていくこと。誰かのブログとか、日記とか、レビューとか、そういうかたちで。それを読んだ人が作品を見て、なにかを残して、それを読んだ誰かがまた…というふうにつながっていくところ。誰かが残してくれなければそのコンテンツはすぐにみんなの視界から消え去って忘れられてしまう。だから、ストックされるレビューを残す作品っていうのはそれだけですごい、のかもしれない。

 

豊かさとお金をどう引き換えるかって話

 

豊かさとは、という話。

これまでお金に関する自己啓発本や投資のテクニック本などを数十冊ほど読んだり眺めたりしてみたけれど、だいたいの本に共通して書いてあったのは「消費ではなく投資をしろ」とか、「のちのちまで負債を背負い込むものに手を出すな」とか、「お金を稼ぐことではなく殖やすことを考えろ」とか、そんなかんじのことだった。では実際に何に投資をすべきで何にお金を使うべきではないかなどの具体例を挙げている書籍も多く、言いたいことはまあわかる。

 

そしてほとんどの本に共通して書かれているのは「〜をすると得(損)だ」という言葉。


わたしがこの言葉を見るたびに不思議に思ったのは、いったいこの本を書いた人たちにとって「得」とか「損」とかいうのが何を指しているのか、そしてわたしたち自身の「得」とか「損」はどう決まるのか、ということ。

たとえば、「ローンを数十年払い続ける持ち家を買うよりも死ぬまで賃貸で過ごした方が得だ」という話は、確か7〜8冊の本には書いてあった。言いたいことはわかるし、その原理も納得できる。電卓はあれば50年で持ち家と賃貸にかかるコスト差がどれだけになるかもすぐに計算できる。

けれども。

たとえば、「家族がいつまでも”ここが我が家”と帰ってこられる家がほしい」と願う人や、「自分や家族のライフステージに合わせて家を作り変えながら永く住むことを愉しみたい」と思う人にとっては、たとえ賃貸のほうが50年で数百万円の得(=コストカット)になろうとも、持ち家を買うことのほうがずっと価値がある。それは値段のつけられない価値であり、豊かさそのものだ。数字で測れない豊かさに対して、得とか損とかそういう話を持ちこむことはできない。

 

じぶんにとっての豊かさとは何なのか、豊かさを手に入れるためにお金と時間をどう使うか―そうしたことを考える機会は、少なくとも自分で稼ぐようになるまでほとんどなかった。
社会で出会う人たちのなかに、お金のさまざまな使い途を知っている人はたくさんいるけれども、お金と豊かさの引き換え方を知っている人は多くないように感じる。じぶんにとってほんとうに価値のある豊かさとは一体何なのか、それさえ真摯に見つめることができれば、お金って案外ついてくるもんなんじゃないか、と思ったり。

 

椎名林檎が歌っている「価値は生命に従って付いている」ってことば、すごく良いからみんな聴いてね。

 

 

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みずみずしい一瞬のいのち

困ったら助けるから困ったら助けてください

 

間違えないように、困らないように、困ったらいつでも自分の力で解決できるように。
これまでそうやってがんばってきたけど、そろそろこのスタイル、変えたほうがいいかもなあ、と思った。雨の日の、駅のホームで。

 

外出はサバイバルゲーム。特に雨の日などは体調が悪くなりやすい上に、電車を利用する人が増えるから、外に出るだけで非常に緊張する。取材や仕事の打ち合わせなら集合時間より30分早く現地に着くよう電車に乗るけれど、初めて降りる駅で大きな発車音やアナウンスが鳴っていたり、集合場所に似たような高いビルがドシドシ建っていたりすると、途端に全身の皮膚がゾワゾワ粟立つ。焦ってしまう。さらに雨の日でたくさんの人が駅のホームにいたりなどすると、それはもう、心臓が早鐘のように鳴る。ゴンゴンゴン。どうしよう、だいじょうぶ、またいつものパニックを起こしてしまうのでは?辿り着けなかったらどうしよう、時間に間に合わなかったらどうしよう?そんなとめどない不安が湧いて、口では「落ち着かなきゃ」と言いながら、どうしても挙動不審になってしまう。頭ではわかっているのに、どうにもこうにも体の震えが止まらない。

そんなとき、ときどき親切なひとが声をかけてくれる。気付いたらボロボロ泣いていることもあるわたしにやさしく声をかけ、駅員室まで連れて行ってくれる。少し落ち着いてから事情を説明して、そこで呼吸が整うまで休ませてもらう。駅員さんも皆やさしい。ありがたい。

予期せずしてある意味での弱者となってから、ひとに助けてもらうことのありがたさが身にしみてわかるようになった。声をかけてくれる人や休ませてくれる駅員さんは、みんな名前も顔も知らない赤の他人。名前も顔も知らないままに誰かに手を差し伸べてもらうたびに、「人間ってありがたい」とつくづく思う。思いやりとか、協力とか、そんな名前をつけられるずっとずっと前から、人間には本能として他者にすっと手を差し伸べるちからがそなわっているのだと感じる。それはおそらく、sympathyと呼ばれる。

 

雨の日の駅のホームで各駅停車を待ちながら、ふと、「誰かが困っていたらできるかぎり助けよう」と思った。そして「だから、わたしが困っていたら誰かまた助けてください」とも。それは「〜するなら〜する」という条件付きの人助けへの意志ではない。ヒトといういきものとして在るべき姿を思い出したようなすがすがしさがあった。ずうずうしい、と言われるかもしれない。けれど、それでいいんじゃないか、と思う。

自分の周りに起こるトラブルには、たくさんの種類がある。デキる人というのは、いくつかのトラブルが起こったとしても、すみやかにそれらすべてに対処し、他人に迷惑をかけず解決できる。「まあこういうこともあるよね」とちょっと困ったような顔で、でもニコニコと笑いながら。そういうスマートな人になりたい!と心から思うけれど、現実問題、雨の日に電車に乗るだけで精一杯のわたしには到底無理そうだな、と思う。でもせめて、問題のスムーズな解決は無理だとしても、困った顔でニコニコくらいはできるようになっていたい。なんというか、あの余裕っぽい感じがあれば、このさきもなんとかやっていけるんじゃないか。

ではどうするか?

みんな得手と不得手がかならずある。たとえば雨の日に電車に乗ることが何でもない人でも、地図を読むのがとても苦手なことがあるかもしれない。大きな音を聞かされるのが平気な人でも、気持ちを口にすることがとても苦手なことがあるかもしれない。そういう「困った」になっている人を見たら、わたしはその人を助けようと思う。「苦手なことってすごく困りますよね」って、笑いながら。それで、わたしが駅や街で困ってしまったときは、困っていますと知らない誰かに言うことをおそれないようにしようと思う。自分ひとりでたくさんの自分の「困った」を抱えるより、手を差し伸べられそうな他人の「困った」を手伝いながら、自分の「困った」も他人に助けてもらったほうが、なんか、ニコニコと笑っていられるような気がする。

困っていそうな人はとりあえず助ける、自分が困ったら潔く助けてもらう、というふたつの行動指針は、案外悪くないんじゃないかと思う。なんでもひとりで頑張ろうというつよい意志よりも、太古よりヒトとしてそなわっているsympathyを思い出して大切にしていきたい。

 

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たまたま公園にいた知らない人の知らない犬。レンズを向けたら突進してきた



2018.04.10_生活の中の春、ご飯を作ること

 

 春は花の季節であるはずなのに、4月2週目にして既に街は花木の盛りを過ぎた気がする。大木の花々は大方散ってしまい、スマホを頭上に掲げる人を見ることがほとんどなくなった。
けれど、ご近所さんの玄関先においてある鉢植えや、庭の柵からこぼれ出る木々にはまだまだたくさんの花、花。馴染み深いものから、名前も知らない慎み深そうなものまで、溢れんばかりに咲いている。花。


犬が死んでから、家には、誰が決まって用意するわけでもなく花が絶えないようになった。駅前の花屋から、ホワイトデーのプレゼントで、送別会会場の余りを。そんなふうにして、ほんの片手でつかめてしまう大きさの花束が、いつも家にある。そのときどきでいろいろな花が混ざっているが、不思議なことに、犬と同じ色の花が毎回どこかに混ざっている。ポピー、ガーベラ、チューリップ、ミニ薔薇。机の上で数日楽しんだのち、枯れるまで骨壷の横に置いておく。朝日や風が当たると花はきらきら光る。春、だなあ。

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ホワイトデーに彼氏がくれた

 

ご飯を作るのが好き、と、前もどこかで言った気がする。
この前、帰宅して「お腹すいたなあ」と言いながらご飯を作っていたら、妹と母に目を丸くされた。

 

「お腹すいたらご飯作るの?」
「えっ当たり前じゃない?」
「えっ」
「えっ」

 

お腹が空いたら作るなんてめんどくさいことはしないでパンでもお菓子でも手近にあるものを食べればいいじゃない。と、どこかマリー・アントワネット寄りの母と妹。しかしわたしはあんまりピンとこない。そりゃ餓死寸前だったらそうするかもしれないけど……。
空腹はわたしにとって大チャンスなのだ。お腹が減ったときに食べたいと感じたものを食べると、食事の満足度が2倍になる。反対に、どんなにおいしいものでもそのときに食べたいものでなければ絶対食べたくないし、それでも欲望に負けて食べたいものを感じる前に何かその辺のものを食べてしまったときは、行きずりワンナイトラブ翌朝の女のような気持ちになる。したことないからほんとうにそうなのか知らんけど。この辺の融通の利かなさなんだよな〜と思いながらも、でも食べたいものを自分の手で作って食べるというのは気持ちいいし、うれしいし、おいしい。マッドサイエンティストが自分の手で完璧な人間を創り上げたい気持ちがよくわかる。

 

今食べたいもの、何かなあ。このまえTwitterホットケーキミックスのアレンジ蒸しパンレシピを見てからずっとホットケーキが食べたい気がしているけれど、そう思いつつ「今じゃない」って気もしてる。と言いつつ、この日記を書いたのは昼間でしたが、夕方にホットケーキを焼いて食べました。Twitterに写真載せたよ。

 

ホットケーキ欲が満たされたのでいまは香川県沖を漂うカツオの一本釣り漁船にワープして、船の上でカツオをのお刺身を食べたいな。うん。

他人よりも自分を思い通りにするほうが数倍むずかしいなあと思う。

 

他人よりも自分を思い通りにするほうが数倍むずかしいなあと思う。他人を思い通りに動かすのは案外簡単で、お金か暴力のどちらかがあればだいたいうまくいく。お金は言わずもがな、暴力は多種多様。怒りに任せて当たり散らしたり殴ったりすることも暴力だけど、「どうしてわかってくれないの」と泣くことや、「どうせわたしが悪いんでしょ」という拗ねた言葉なんかも立派な暴力だ。要は相手を思い通りにするために困らせることはぜんぶ暴力です。この世界には弱さや正義を装った暴力がたくさんある。

けれど、自分で自分を思い通りにする、というのはなかなかむずかしい。ちょっと考えてみてほしい。いまの自分がほんとうに思い通りの自分かどうか。たぶんほとんどのひとが「何か違う」とか「ぜんぜんダメだ」とどこかしらで感じながら生きていると思う。わたしも割とそうです。そういう焦燥感のような何かを感じたことはない、という人に会ったことがない。

 

自己啓発本や紛い物宗教本にはよく「ありのままを受け入れましょう」と書いてあるけれど、そもそもの「ありのまま」が何であるかを自分なりに突き詰めて納得して書いている書き手は、ほとんどいなかったように思う。

この言葉の得てして危険な側面は、「ありのまま」に「それで良い(善だ)」という価値基準がくっついてまわるところ。多くの場合、「ありのままを受け入れましょう」には「どんなに自分をダメな人間だと感じても、あなたはそのままでいい」というような、「ダメ」とか「至らない」という自己評価を正当化するニュアンスが込められており、そして事実、ものすごい数の書籍でそのような誤読がなされている。

そもそも「ありのまま=在るが儘」と二元論(善/悪)の価値基準はまったく関係がない。在るが儘は「唯、在る」というそれだけであり、それを良い悪いと判断するのは理性や社会の文脈なのだ。「唯、在る」がいったいどういうことなのかを考えないままに、「それでいい」と誤読をされて広まっている「ありのまま」を見かけるたびに、「こんな栄養のない言葉を活字にしていいと思ってるんだなあ」と、なんだか気持ちがしぼんでしまう。誤読について自覚的でない本や書き手がこの頃特に多い気がして、本屋に行きたいとあまり思えなくなった。特に啓発本コーナーには近寄りたくない。だいたいみんな自信満々過ぎて、こっちの自信がなくなってしまう。


と、偉そうなことをいいつつ、実はわたしもまだ「唯、在る」がどういうことなのか、ほとんどわかっていない。わかっていないけれど、文脈のような矮小な枠によって捉えきれる事象ではなさそうだ、ということだけは、ここ3年ほどでやっと少しずつ感じられるようになってきた。やっぱり今年はもう少し仏教か東洋哲学の本読んでみなきゃだなあ。

20180405_深夜腹ペコのdiary

2月と3月と4月のあいだに、今年は境目がなかった気がする。つめたい風が吹いて、梅が散る。すこし晴れ間がのぞいたら、見る見る間に木蓮の蕾がうごめいて、はじけて、空に真っ白い花びらが溶けた。春の雪が桜の目覚めを誘ったかと思えば、並木道は一瞬の生殖爆発を起こし、あっという間に風がすべてを攫っていった。
ほんの短い映画のような冬の終わりと春の始まりだったな。今年は。

湯船に浸かっているときは書こうと思っていたことがあったんだけど、何だったかなあ。忘れてしまった。

最近「文章を書くことは好きですか?」と訊かれて、「ぶっちゃけわからないです」と答えた。カッコつけたかったわけでも何でもなく、本当にわからない。目的を持って何かを達成するために書くことも、目的なくこうやって何かをダラダラ書くことも、両方ぜんぜん嫌いじゃない。嫌いではないけれど、じゃあ好きですか?と言われると、それはすこし違うなと思う。マグロのお刺身のほうが好きだよ。「あれですか、呼吸や水と一緒みたいなもんで、”あるのが当たりまえ”ってやつですか?」と自分に問うてみたけれど、別にそういうわけでもない。ハーめんどくさいな、とかよく思っている。いまだって手を付けなきゃいけない原稿が一本そのままになっている。明日の朝起きたら完成してないかな、これ。くらいに思っている。
でも、これくらいの距離感で付き合い続けられる営みが他にあるか、って訊かれたら、まあ、書くことしかない。距離感がちょうどよくやれるからなんとなく続いている、というのがいちばん正しいのかもしれない。距離感は大事。他人とも、非生物とも、概念とも、場所などとも。

友人とガパオライスを食べながら「ひとつの集団に居続けるのはマジできつい」みたいな話をした。集団へのコミットは、消極的な宗教にいつの間にか入信しているみたいなもんだと思う。集団内で共有される話題とか、空気とか、おもしろいとされるものとか、そういうのがだいたい均質的になっていくし、その均質になっていくことを別に変だと思わない。変だと思わない、というのがいちばん怖いところで、「自分の見ているものや感じているものが当たり前」であるという感覚が拡張していくと「自分の見ているものや感じているものは他の人も同じように見たり感じたりしているはずだ」になる。会社の中ではわりと起こりづらいところもあるが、大学のサークルとか高校の部活とかはまさにそうなんだと思う。狭い空間に人間を複数入れておくとろくなことが起きない。と思いながらガパオライスの黄身をつついた。次はパッタイ食べてみタイ。