きみのお祭り

死ぬまで盛り上がっていけ

生活に疲れるという贅沢について

贅沢なことだ、と思う。生活の繰り返しに疲れることを。毎日同じ時間に起きて、ストレッチ。水を飲んで、走りに出る。5キロちょっと走る。帰宅。水を飲み、ストレッチ、筋トレ。シャワーを浴びていると、夫が起きてくる。コーヒー。掃除機。デスクに向かい、仕事。書きものがメイン。ランチ。ついでに夕飯の下準備や家事。食べ終わったら軽く運動。デスク、仕事。午後はだいたい打ち合わせ。途中小腹がすいておやつ。仕事。ストレッチ、走る。5キロちょっと。帰宅。着替えて、残りの仕事を片付ける。夕飯の準備。夫帰宅。仕事の仕上げ。遅めの夕食。歯磨き。軽い運動とストレッチ。お風呂。仕事関連の勉強、あるいは文章を書く、あるいは読書。身支度を整え、就寝。

こうやって毎日過ごす。毎日毎日。生活や仕事のなかに、うれしいこと、楽しいこと、びっくりすること、悲しいこと、緊張、怒り、戸惑い、迷いがときどき差しはさまる。たまに起き上がれないほど具合が悪くなることもあれば、一日15キロ以上走る日もある。夫と良いご飯を食べに行ったり、旅行に行ったり、友人たちとコーヒーを飲む。いつか子ども産むのかな、とか、次の年末はおせちを作ってみよう、とか考える。

平坦に見えて、手触りがある。その微妙な凹凸のひとつひとつが幸せであるということを理解しながら、たまにその繰り返しの果てしなさを思い、地平しか見えない真昼の砂漠に放り出されたような不安を覚える。太陽が真上にあり、空が青く、砂、砂、砂。広い。広い広い。道がない。誰もいない。喉も渇かずお腹も減らない。暑くもないし寒くもない。なのにどこか息苦しく、底抜けの穴に落ち続けているような。つまり生活への、疲れ。人間であるという条件に縛られ、生きものであるという制約に縛られることが、生きることと限りなく同義であり続けることへの。

繰り返される日々にある幸福のことを、その日々それ自体を幸福と呼べることを、わたしはよく知っている。と同時に、その繰り返しが自分を時として疲れさせることも。その疲れが非常に贅沢であるということも。贅沢はいけない、不安など間違っている、など、そんなふうには思わない。そういう矛盾を当たり前にはらんで生きていることについて、未だ感想をうまく言葉にできないでいる。

きっとこの疲れは、どこにいても何をしても、誰と生きても、なくならない。素晴らしい旅も、人生を変えるような出会いも、思いがけない災いも、すべては手触りへと還元されていく。誰しもきっと、いつだって少し疲れ続けるのだ。