羊とメトニミー

伏流水のなかに棲んでいる

はんぶんのじぶん

 

 

半分ずつでできている。

片方は、世事に通じた自分。優等生で、物分りと聞き分けが良くて、お行儀をわきまえていて、先生や大人に期待されたり褒められたりするのがうれしくて、納得のいかないことや理不尽な目にあっても黙って肚の中に収めることもできたりして、けっこう突っ走って頑張ってしまう自分。

片方は、ぷにゃぷにゃとやわらかくて、熱くて、形になる前の胎児のように原初的で、獰猛で、真っ直ぐで、大きな声で笑ったり、ぽたぽた涙を流したり、秒ごとに目まぐるしく感情がゆれて、「大好き!」と「大嫌い!」を腹の底から叫ぶ自分。

 

 

世事に通じた自分は、自分が他人にどう思われているのか、大人たちに何を期待されているのか、なんとなく分かっている。だから期待された通りにやって誰かに喜ばれるのが単純にうれしい。「レールに乗っている人生なんて」と大口を叩きながら「まあでも、レールに守られているからこうして安心して生きていけるんだけどね」ということを分かりすぎている。大きな何かに守られて身分が保証されていることに、すごく安心感をおぼえている。心地いい。そこから外れなければ、きっとみんなはこれからもわたしに期待してくれる。誰かの期待にこたえたいから、この先も頑張っていける。守られなくなることも、期待されなくなることも、怖い。自分の形や価値がわからなくなってしまいそうで。物分りがいいから、傷ついていないフリがうまい。悲しんでいることや怒っていることや誰かを見下してしまうことを、誰にも知られたくない。いつも「正しいこと」によりかかっている。

 

 

ぷにゃぷにゃした胎児みたいな自分は、とても乱暴でうるさい。「腑に落ちた」と感じなければテコでも動かないし、自分がYESといえばYESNOと言えばNOだ。叫ぶ、叫ぶ。ときに歓声を上げて全身で踊りだし、ときに嗚咽を漏らしむせび泣く。好き!とか、気持ちいい!とか、そういう感覚を感じられることがなによりもうれしい。身体と心があってよかったと思う。自分で全部決めたい。美しいものと素晴らしいものしか身のまわりに置いておきたくない。そしてダメな日はとことんダメ。3時間眠って1時間覚醒して3時間眠る日々を繰り返したりする。身体や心がもう無理でーす!とサインを出したら、スマホPCもぜんぶ電源ごと切って、ひたすら深い海の底に沈んでいく。目も開けたくない、意識を保ちたくない、何も感じたくない、感覚器官がぜんぶ閉じてほしい。本気でそう願って、ただただこのわけもわからない大嵐が過ぎるのを待っている。太陽が大嫌いになって、夜が怖くなって、もう二度と風に乗って飛ぶことなんてできないのではないか、と不安の中をぐるぐるまわる。けれどある日突然光が差し込んできて、気づいたら、爽やかな広大な、風が南へと駆け抜けていく草原に立っている。いつの間にか海の底から土のある地へと這い上がって、二本の足で立っている。

 

 

半分ずつでできたひとりのわたしは最近、両方のバランスを崩すことが多かった。物分りの良い自分に押しつぶされて、胎児みたいな自分のことを忘れているうちに、本当に何も感じなくなり、立ち上がることができなくなってしまっていた。けれどようやく少しずつ、夏の光が差し込んできた。空が明るいことが分かる。花が薫っていることが分かる。手にかかる水の冷たさが分かる。犬の腹のやわらかさが分かる。背中をつたう汗のくすぐったさが分かる。

身体を取り戻していきたい。また夏が来たんだと、感じたい。さよならを言えなかった梅雨に、また来年も会いたい。胎児みたいな自分を大切にして生きていきたい。

8月が、もうすぐ目の前だ。

 

たぶんわたしのように、半分の自分を抱えている人がこの世界にはたくさんいる。人によっては2人どころではないかもしれない。もっとたくさんのさまざまな自分が矛盾しあって、その喧騒のうるささに耳をふさいでいる人や、どの自分を信じたらいいのか分からず、立ち止まったまま何年もの時間を過ごしている人も、いるかもしれない。

どれがほんとうの自分、という絶対の解は存在しない。ぜんぶの自分を大切にできればパーフェクトだけれど、環境や年齢に合わせて「いまの自分にとって大切な自分」と「忘れ去られていく自分」が存在するようになるのだと思う。誰かのことを忘れてはいないか、置き去りにしていないか、たまに振り返ってみてほしい。誰かが欠けたまま気づかないで歩み続けたらいつか、「わたしの人生、返してよ」と、置き去りにした自分がそのときの自分を大声で責めるだろう。自分で自分に責められるのは、ほんとうにしんどい。だからときどき、点呼をとろう。自分が全員、ちゃんと揃っているか。

 

みなさまも良い夏をお過ごしください。

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