きみのお祭り

死ぬまで盛り上がっていけ

2015.06.02

 ほとんど塞ぎかけた二番目のピアスホールを触り、ふいにさみしさを感じた。鳥の声でかえって明瞭とさせられるしずかさが、身体の芯にひびいてくるような朝であった。

 二番目のピアスホールは、今から五年ほどまえ、高校二年生の終わり頃にあけたものであって、あけた理由はじつにくだらなかった。当時付き合っていた男の子がピアスを嫌がる人で、わたしにもっと女の子らしくあってほしいと思っていたものだから、それがどうにも癪に障って、ビクビクしながらひとつめのホールをあけたわずか数週間後に何のおびえもなく一瞬で簡単にあけたのであった。以来半年か一年にひとつのペースでピアスは増え続け、ときどきふさいだりまたあけたりを繰り返しながら、去年の春頃ようやく四つにおさまった。しかし、この二番目のホールはあけて五年も経つというのにどうしてもふさがりがちで、なんだかだんだんその女々しい感じが嫌になってきて、「そんなにふさがりたいのならふさがればいい」と、つい先週から16ゲージ1.2ミリのステンレス製の芯を突き刺しておくのをやめた。予想通り、三日目にして0.8ミリのピアスすら窮屈になり、一週間を経た今ではわずかな窪みがみとめられるだけで、ほとんど目立たなくなった。特にこのホールにだけ特別な思い入れがあるわけではないものの、わたしがピアスをあけるのはいつも、そのときに感じている息苦しさを痛みでつらぬいて逃してやるためであって、それは衝動よりもむしろ無意識の呼吸に近いものであった。その痕跡をこうして閉ざしていくことに、珍しくすこしのさみしさを感じた。

 今、二十一の自分が十六の頃の自分に「もう大丈夫」と言ってやることはできても、十六のわたしの絶え絶えの喘ぎ声は、この薄い皮膚と肉の貫かれたなかにずっと閉じ込められている。時間はすぐに五年十年二十年と経って、このピアスホールは跡形もなく時間の重なりに潰されてしまうだろう。耳もとで潰されてゆく色も形も名前もない息遣いを、わたしは幾つまで覚えていられるのだろう。

 いよいよ今日も朝日が昇り始めた。忘れてもいいこと、忘れてはならないこと、忘れなくてはならないことの脱皮殻が陽の光にきらきらと反射している。まぶさしを手のひらで追い払いながら、わたしは今日も黙って窓を開け放つ。

2015.05.30

 

アマゾン展に行ってきた。羽の生えた生き物とか、化石になってしまった生き物とか、地面を這いずりまわる生き物がたくさんいた。

 

なかでも個人的に興味深かったのは蝶々。モルフォ蝶や、透明な翅をもつものが標本にされていた。透明な翅は、人間が触れたらたちまちに指先の熱で溶けてしまいそうで、標本にされて匣におさめられてなお上から観賞用の光などをあてられていることが非常に乱暴な扱いである気さえした。それほどまでにこまかく、氷より透きとおっている。モルフォ蝶の翅はどんな素材でできているのか、まったく想像もつかなかった。サテン地のようであり、化学式の複雑な結晶のようであり、飛行船の布のようでもあり、鉱物のようでもあって、このなかに風を抱いてアマゾンの深い樹々のあいだをあちらこちらと舞っている姿は、神秘的であるというよりもこのうえなく官能的であるように感じられた。森で迷子になって疲れ果てた若い男の人の前にだけ現れて、その男をもっと奥深く森へ導いていってしまいそう。

蝶の標本が、鳥や翼竜類、その他昆虫などの剥製や化石や標本と並んでいるのを見て初めて気がついたのだけど、彼らの翅は飛ぶためあるのではないのかもしれない、と思った。今までわたしが生まれてから見てきた昆虫は、すべて翅を震わせて線状に飛ぶ。直線でも、ゆるやかなカーブでも、とにかく彼らには線状に飛ぼうという意思が見られる。それは鳥も(おそらく)翼竜類も一緒で、意味もなくふらふらと上下に飛ぶ鳥などは見たことがないし、いつも移動やエサを捕るために適した飛び方をしている。

けれど蝶は翅を震わせない。せわしなく動かすこともなく、かろやかな和紙のように風にふかれていったりきたりを繰り返す。キャベツの畑を低空でひらひらしているかと思えば、ときどき驚くほど空の高くまで飛んでいって、雲に溶けて見えなくなってしまう。飛ぶ、というより、それこそ「舞う」という表現がしっくりくるような。しかしそれならば、うつくしい翅などもたずに生まれてきても問題はなかったはずだし、どうしてあんなにうつくしいのかもよく分からない。サ行の「シ」の音だけが他のサ行の音と少しだけ違うように、蝶は他の昆虫に較べて少しだけ、違う気がする。昆虫はたいてい合理的で無駄のないフォルムこそがうつくしさの理由であると感じていたけれど、蝶の翅には、ほんのすこしの不合理や謎が混ぜてある。それがうつくしさのもっとも大きな理由なのかもしれないな、と思った。

翼竜類や虫と植物の化石にもどきどきした。骨はよけいに。この骨や翅や脚がどう動いていたのか想像するだけでも楽しい。生きているうちに自分の生の骨を見ることはまずない。まずないのに、自分の身体を動かすもっとも原始的な要素のうちのひとつで、死んだあとも土に埋もれてさえ永く永く残っている。何を食べていたかとか、何を考えていたかとか、内臓や精神はひとつも残らないのに、骨は一億年も残っている。形として、その生き物を精一杯主張しながら。

2015.05.22

 

昨日は珍しく、スターバックスの新作のフラペチーノを飲むなどした。

朝起きたときは別に飲みたいともなんとも思っていなかったのだけど、病み上がり以来初めてショートパンツをはいて脚を出して、新しいHARUTAの靴をおろしたもんだから、朝から気分ごとまるっと女子になってしまったのだ。

 

わたしの仲の良い友達にも「朝着る服で今日は『男する』か『女する』か決めるの」と言う人がいる。彼女は与えられた性別と期待される性別の間でときに激しくふるえたり揺れ動いたりしながら、自分自身と手を組んだり、あるいは邪険にしたりしながら、毎日性別を着せ替えて日々をわたっていく。彼女がわたしにその話をしてくれたのは初めて会った酒の席で煙草を吸いにベランダに出たときで、煙草を片手にその日完全に『女して』いた彼女は、暗い水の底に隠れたちいさな動物のような眼でわたしを見つめていた。

 

「わたしは、見る人がわたしを無限に解釈してくれるようにありたい。わたしは個体としてここにいるけれど、みんながわたしを勝手に解釈してわたしを好きなように受け取ってほしい。誰かに「これがわたしです」と差し出すのは自信がない。そういう意味では中性的かもしれない。けれどこうしてスカートもズボンも楽しめるし、お洒落の幅も広がるし、そういう機能的な意味では女でよかったと思っているよ」

 

そう、フラペチーノ。あれは過程の飲み物だね、と、公園の丸い岩のベンチに座りユニ子と笑った。フラペチーノを買うには、まずスターバックスに入るぞという気概とお金が必要だ。普段はスターバックスを使わないから。そしてレジの前で恥ずかしい長ったらしい呪文を唱えなくてはならない。「あの、新しく出たイチゴのやつをひとつ」なんて言おうもんなら、店員に優しく呪文返しをされて居た堪れない思いをする。そして出てきた飲み物を受け取り、友達と一緒に写真を撮ってSNSにアップロードする。一緒に飲むのが彼氏の場合は、さりげなく奥側に異性がいることを感じさせるのがポイント。こうしてフラペチーノは完成する。SNSにアップロードするところまでがフラペチーノ。過程を踏まなきゃ飲めないのがフラペチーノ。

 

2015.05.18

 

身体感覚。自分にしか分からないもの。

 

頭でモノを考えすぎるクセがあるから、頭で考えるのと同じくらい身体で生活を受信している。「から」というのは、人間は何か極端に一つの方向につよい力がはたらいているとき、それと同じ強さで逆方向に力がはたらいていて、ひとはそうやってバランスをとっている、と、小さい頃からなんとなくそう感じている、から。

 

いやらしさや官能のない文脈でひとの身体を丁寧に触るのが好きだ。

頭を何度も撫でたり、首筋や肩を揉んでみたり、鎖骨の辺りを押してみたり、腕をぜんぶ掴んでみたり、背中を手のひらでさすったり、腰を両手で包みこんだり、脚や膝の形をたしかめたりするのが好きだ。目を瞑って触るのが好きだ。手の中で少しずつその人の身体の形が分かって、ときどき思いがけない脈や疲労の蓄積の場所を知る。

許されるならば、自分の半身ぜんぶを使って包みこんだり、手をつないだりするのも好きだ。生命の感触が全身に伝わってきて、その人の身体が何を呼んでいるのか、奥底に何を沈めているのか、何が欠乏しているのか、少しだけ聴こえてくる気がする。そのかすかな呼吸を聴くのが好きだ。でももしかしたらほんとうは、そんな大胆な密着をしてもゆるされる心地良さに、自分の身体が虜になっているだけなのかもしれない。

2015.05.05

頭で考えていることと、身体を使って生きてみて実際に感じることというのはこんなにも違うものか、とよく思う。
何かを頭で考えていること、というのは、たいていの場合、何かしらを自分に納得させたいときである気がする。仮説を立ててみたり、誰かに影響されて主義主張を更新してみたり、手順を検討してみたり、腹が立つことについて整理をしてみたり。反対に、何かをじかに体験して感じているということは、理屈や論理では説明がむずかしいもの、或いは言語化すると必ず誤差が生じてしまうものに真剣に向き合うことである気がする。好きな人とじっくり話をしてみたり、長い距離を歩いてどこかに行ったり、苦手な人と一緒に仕事をしたり、モノを作ってみたり。
ずるいな、と思うのは、あんなに頑張って頭で考えたことを、往々にして身体や感覚があっというまに軽々と超えていくことあるということだ。こっちがものすごく真剣になって悩んだり怒ったり何かを飲み込んだりしながら、頭で考えうる限りの可能性や仮説をはじき出しているのに、実際にやってみたらそれのどれでもなかったようなことがよくある。生きてみて身体感覚がひとつ増えるたびに経験が更新されて、更新されたらまた頭がそのうえで考え始める。ミルフィーユのように考えてやってみて超えて考えてやってみて超えて、を何度も繰り返しているうちに、頭で考えるのがバカらしくなってくる。いくら考えても、考えていた以上のことが見つかってしまうのだ。生活というものには。
かといって考えることをまったく放置してしまうと、今度は起こっているはずのことに気がつけなくなる。虹は7色。でも人によっては30色くらいに見えるかもしれない3色くらいにしか見えないかもしれない、と考えていると100色くらい見えるのに、虹の色の数も知らないまま虹を見みると、どうみたって5色にしか見えない。そういうことがあまりに多すぎると、自分はバカなんじゃないかと不安になってきて、結局また頭で考え始めてしまう。たいへん難儀なことだ。考える、と、感じる、を交互に重ねていくのは時間がかかる。けれどそうやって時間をかけながら日々歩かないと、足が前に出ていることを実感できないので、しかたなくそうしている。


就活をしていたとき、よく「即戦力」や「直結」という言葉を見かけた。使い始めて即結果を出せる人間のほうが効率的だし、仕事をたくさんこなせるのでその分経験だって何倍速で積んでいけるだろう。けれどそうやってみんなが生きることに速度を持ちだしてどんどん加速していったら、自分が速くなるぶんみんなも速くなるのだから、相対的には何も変わらない。相対的には何も変わらないから、みんなもっと急いではやくはやくと結果を求めるようになる。そうした加速の中で、頭と身体が少しずつ削れていくだろう。
わたしのように、時間をかけなければ自分が前に歩いているか右に歩いているのか左に歩いているのか、はたまた後ろ向きに歩いているのかも分からないようなぼんやり人間は、社会ではたらく大人たちからしたら扱いづらいかもしれない。けれど、時間をかけて頭と身体を使わなければ育てられない結晶のようなものは間違いなく自分のなかにあって、それが自分を揺るがせないためのひとつの核であることもまた認めざるをえない。加速の中でいかに自分の結晶のペースを見失わずに生きていけるか。近頃、犬を撫でながらそんなことを思う。

2015.05.02

最近、我が家は粘度の高いぬるま湯のような状態である。
母と妹がずっと喧嘩をしているのだ。
四六時中喧嘩をしているわけではないが、一日に一回は必ず険悪な雰囲気になる。そしてお通夜のようなリビングが完成する。それまでみんなで楽しく笑いながらご飯を食べていたのに、どちらかの何気ない一言や、何気ないほんのちょっとの動作が、もう一方の気に障るらしい。
時期的なものなのかな、と思う反面、巻き込まれこそしないものの、やっぱり居心地は良くない。二十一年間一緒に生活しているから、お互いがお互いのどこに嫌な思いをしているのか手に取るように分かるし、「あ、今のマズいな」と思うと、もう既にどろりとした空気がどこからともなく沸き上がってきている。
 
 わたしは二人から未だかつて、「自分はどこが悪かったんだと思う?」と問いかけられたことがない。「わたしの何が悪いの?」という攻撃的な問いをお互いが相手に向けることはあっても、二人は第三者であるわたしに対して自分の悪いところを訊いてくることはぜったいにない。なぜならお互いに自分は悪くないと思い込んでいるから。
 相手に向けられる「わたしの何が悪いの?」は、自分の悪いところや改善すべき点を素直に相手に尋ねているわけではない。もし向こうがひとつでも何か返事をしようものなら、「それはあなたがわたしをそうさせるから」とか「意味が分からない」などの迎撃がなされ、たちまちまた無益なあらそいが始まる。本当は自分の悪いところが知りたいのではなくて、相手の口からそれを言わせることによって「そのあんたが不快な思いをしている原因はあんた自身だってことを知りなさいよ」ということを知らしめたいのかもしれない。でもそんなことはやっぱりぜったいに認めない。ふたりとも「仲良く暮らしていきたい」という理想を当たり前のように思いすぎて、それをほとんど見失っている。いつの間にかそれは「わたしは仲良くしていたいのに、向こうが…」という言い訳という形になって外に漏れ出しているのだ。
 第三者に意見を求めるということは、一度自分を自分という眼差しから外してやることである。第三者の目線で、自分を見たとき、相手を見たとき、自分と相手の関係性を眺めたとき、おのずと見えてくるものがたくさんある。そうやって想像力をはたらかせなければ、わたしたちは円滑な関係性を築いていくことができない。円滑な関係性、というのは常にものすごい質量の想像力がはたいている。そしてその想像力とは何かと言われれば、一言で言えば愛情なのだと思う。相手に対する敬意もそうだし、幸せであってほしいという根源的で純粋なおおきな願いから、今日はゆっくり休んでね、という小さなねぎらいのメッセージまで、すべては愛情なしには発されえない。けれどそこに少しでも「自分はこんなに相手を思っているのに」とか「自分の愛情に対する見返りが不足している」とか、「自分」という文脈を挟んでしまうと、愛情は途端に鉄の鎖へと変わってしまう。家族という関係性(特に親から子へ)は、純粋に相手のことを考えて愛情を注ぐことによって成り立っているぶん、いつもそこに愛する主体である「自分」という文脈がはさまれがちになってしまう。「わたしはあなたとは違うし、あなたのものではない」という主張でしか子どもたちは親を殺すことができないし(しかしその宣言はやはり愛情なしには為し得ないほど、子どもにとっては身を切るようにつらいものだ)、そうやって殺された親もまた「わたしはあなたのためにこんなに一所懸命やっているのに」という文句の一つでも言わないと無事に成仏することはむずかしい。ほんとうにいろいろなことがむずかしいのだ。家族という関係性は。
 
 人は、誰かに言われたからといってそう簡単に変われるものではない。何かや誰かにつよく心を動かされたとき、自分のなかから沸き上がってくる倫理によってしか変わることができない。だから二人に対して直接的なことは何も言わない。言わないけれど、いつかどちらかがほんの些細な瞬間に何かに気付いてくれればうれしいから、今日もここでわたしは飼っている犬の話や大学の話なんかをして、平等にふたりに愛情をそそぐしかない。
また夏がくる。今年も三人で騒ぎながらスイカを切り分けて食べたい。

樹木病棟

夢十夜第一夜をオマージュした短いお話を書きました。

***

「もうそろそろ、ぼくは死ぬよ」
半分目を閉じかけて、おだやかな声で有紀はそう言った。静かだけれどしっかりとした声で、死ぬんだ、と酸素マスク越しにもう一度つぶやいた。
「どうして?」
「分かるんだ。芽が、食道のほうまで伸びてきているのが分かる。あと少ししたら、ぼくは声を失って、そして死ぬだろう」
「そう」
有紀はもう長いこと、この病棟で暮らしている。季節は風に連れられ、雨に溶かされ、蝉に見送られ、雪に削られ、そうして今、この病室は3度目の春を迎えようとしていた。有紀は雪の季節に生まれ、13回春を迎え、そして14回目の蝉の季節にむずかしい病気にかかった。それからいくつもの病院を転々としたが、誰もその病気を治すことはできなかった。そして15回目の雨の季節の頃、有紀はこの樹木病棟に居場所を決めた。
「どうしても、死ぬの?」
「そうだね。生き物だから。しかたがないよ」
有紀の白く細い腕には数本の蔦が絡まり、鼓動と呼吸に合わせて脈を打っている。病室の窓からは、東の空が真っ赤に染まり、雲が薄紫色に連なっているのが見える。わたしたちは、何も言わずにしばらく窓の外を眺めていた。
「死んでも、またきみに会いに来るから」
二つの目がわたしをじっと見つめる。
「待っていてほしいんだ。必ず会いにくる」
「どれくらい待てばいいの?」
有紀はまた視線を窓の外にずらした。真っ赤に溶けた太陽は山の際から零れ落ちそうな光を放っている。
「百年」
「百年」
「百年、待っていて。そしたら必ず会いに来るから」
「分かった。百年ね」
「約束だよ」
「約束する」
「ありがとう」
有紀はやさしく微笑んで、またわたしをじっと見つめた。太陽がいよいよ雲の隙間から顔を出し、わたしたち二人と病室を燃えるように染めている。きらきらと、二人の瞳に朝日が反射した。
「ありがとう。さよなら」
有紀はそうつぶやくと、朝日よりもきらきらと光る涙をこぼし、両の目を閉じた。そして呼吸がとまり、次の瞬間、もう死んでいた。
わたしは有紀の酸素マスクを外してやった。まだあたたかい頬と、かたちの良い唇。その唇をそっと親指で撫でると、わずかに隙間がひらき、そこから百合の芽がふたつ、顔を出した。きっとこの百合は、有紀に似て真っ白できめの細かい、ほっそりとした大きな花をつけるだろう。そしてこの花が枯れたら、有紀の身体は樹木病棟に少しずつ吸収されていって、樹木病棟とひとつになる頃、病棟の屋根には真っ白な綺麗な花が咲くだろう。そのあとにできた果実をもいで、植えて、そうして何度も季節が巡るあいだ、わたしは有紀の樹を大切に育てて百年を待つだろう。
「さよなら、有紀」
わたしは小さくつぶやいて、有紀の顔に自分の顔を近づけた。美しい顔。もう死んでしまった。わたしは有紀の唇を自分の唇でふさぎ、百合の芽をひとつ噛みちぎった。有紀とわたしの、積み重ねた時間への餞に。それをよく咀嚼して飲み込み、わたしはもう一度、頬を撫でた。頬に触れた指先からかなしみが水のように流れ込み、わたしの全身を巡りはじめた。百合の芽の苦さが口いっぱいに広がり、涙がこぼれた。気がつけば、もう有紀の腕と足には無数の細かい蔦が伸び、足首のあたりには小さなふたばが芽吹いている。有紀は死んでしまった。さようなら。有紀。百年、わたしはあなたを待っている。
病棟を出ると、朝日はもう雲をずっと高く追い越して、金色の光を病棟にそそいでいる。樹齢八万年と推定されるこの樹木病棟は、大きな樹木そのものだ。この中で死ぬと、死んだ人はこの樹木病棟に吸収され、養分となり、そうやって病棟は何年も、何万年も育ち続ける。次の蝉の季節の頃には、きっと有紀の花が咲くだろう。
わたしは高く聳える病棟をしばらく見上げたあと、うつむきひざまずいた。
「さよなら、さよなら、有紀」
そうつぶやいて、わたしはぽたぽたと涙を樹木の根にこぼした。少しでも早く、有紀の花が咲きますように。そしてその花が早く実になりますように。有紀の樹が、わたしに百年を忘れさせてくれますように。
わたしは樹木病棟に背を向けて歩き出す。春はまだ遠い。冷たい風が朝日に照らされた樹木病棟の葉を揺らし、マフラーをたなびかせた。樹は泣きも笑いもせずに、じっとわたしの後ろ姿を見送っていた。