きみのお祭り

死ぬまで盛り上がっていけ

2018.04.10_生活の中の春、ご飯を作ること

 

 春は花の季節であるはずなのに、4月2週目にして既に街は花木の盛りを過ぎた気がする。大木の花々は大方散ってしまい、スマホを頭上に掲げる人を見ることがほとんどなくなった。
けれど、ご近所さんの玄関先においてある鉢植えや、庭の柵からこぼれ出る木々にはまだまだたくさんの花、花。馴染み深いものから、名前も知らない慎み深そうなものまで、溢れんばかりに咲いている。花。


犬が死んでから、家には、誰が決まって用意するわけでもなく花が絶えないようになった。駅前の花屋から、ホワイトデーのプレゼントで、送別会会場の余りを。そんなふうにして、ほんの片手でつかめてしまう大きさの花束が、いつも家にある。そのときどきでいろいろな花が混ざっているが、不思議なことに、犬と同じ色の花が毎回どこかに混ざっている。ポピー、ガーベラ、チューリップ、ミニ薔薇。机の上で数日楽しんだのち、枯れるまで骨壷の横に置いておく。朝日や風が当たると花はきらきら光る。春、だなあ。

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ホワイトデーに彼氏がくれた

 

ご飯を作るのが好き、と、前もどこかで言った気がする。
この前、帰宅して「お腹すいたなあ」と言いながらご飯を作っていたら、妹と母に目を丸くされた。

 

「お腹すいたらご飯作るの?」
「えっ当たり前じゃない?」
「えっ」
「えっ」

 

お腹が空いたら作るなんてめんどくさいことはしないでパンでもお菓子でも手近にあるものを食べればいいじゃない。と、どこかマリー・アントワネット寄りの母と妹。しかしわたしはあんまりピンとこない。そりゃ餓死寸前だったらそうするかもしれないけど……。
空腹はわたしにとって大チャンスなのだ。お腹が減ったときに食べたいと感じたものを食べると、食事の満足度が2倍になる。反対に、どんなにおいしいものでもそのときに食べたいものでなければ絶対食べたくないし、それでも欲望に負けて食べたいものを感じる前に何かその辺のものを食べてしまったときは、行きずりワンナイトラブ翌朝の女のような気持ちになる。したことないからほんとうにそうなのか知らんけど。この辺の融通の利かなさなんだよな〜と思いながらも、でも食べたいものを自分の手で作って食べるというのは気持ちいいし、うれしいし、おいしい。マッドサイエンティストが自分の手で完璧な人間を創り上げたい気持ちがよくわかる。

 

今食べたいもの、何かなあ。このまえTwitterホットケーキミックスのアレンジ蒸しパンレシピを見てからずっとホットケーキが食べたい気がしているけれど、そう思いつつ「今じゃない」って気もしてる。と言いつつ、この日記を書いたのは昼間でしたが、夕方にホットケーキを焼いて食べました。Twitterに写真載せたよ。

 

ホットケーキ欲が満たされたのでいまは香川県沖を漂うカツオの一本釣り漁船にワープして、船の上でカツオをのお刺身を食べたいな。うん。

他人よりも自分を思い通りにするほうが数倍むずかしいなあと思う。

 

他人よりも自分を思い通りにするほうが数倍むずかしいなあと思う。他人を思い通りに動かすのは案外簡単で、お金か暴力のどちらかがあればだいたいうまくいく。お金は言わずもがな、暴力は多種多様。怒りに任せて当たり散らしたり殴ったりすることも暴力だけど、「どうしてわかってくれないの」と泣くことや、「どうせわたしが悪いんでしょ」という拗ねた言葉なんかも立派な暴力だ。要は相手を思い通りにするために困らせることはぜんぶ暴力です。この世界には弱さや正義を装った暴力がたくさんある。

けれど、自分で自分を思い通りにする、というのはなかなかむずかしい。ちょっと考えてみてほしい。いまの自分がほんとうに思い通りの自分かどうか。たぶんほとんどのひとが「何か違う」とか「ぜんぜんダメだ」とどこかしらで感じながら生きていると思う。わたしも割とそうです。そういう焦燥感のような何かを感じたことはない、という人に会ったことがない。

 

自己啓発本や紛い物宗教本にはよく「ありのままを受け入れましょう」と書いてあるけれど、そもそもの「ありのまま」が何であるかを自分なりに突き詰めて納得して書いている書き手は、ほとんどいなかったように思う。

この言葉の得てして危険な側面は、「ありのまま」に「それで良い(善だ)」という価値基準がくっついてまわるところ。多くの場合、「ありのままを受け入れましょう」には「どんなに自分をダメな人間だと感じても、あなたはそのままでいい」というような、「ダメ」とか「至らない」という自己評価を正当化するニュアンスが込められており、そして事実、ものすごい数の書籍でそのような誤読がなされている。

そもそも「ありのまま=在るが儘」と二元論(善/悪)の価値基準はまったく関係がない。在るが儘は「唯、在る」というそれだけであり、それを良い悪いと判断するのは理性や社会の文脈なのだ。「唯、在る」がいったいどういうことなのかを考えないままに、「それでいい」と誤読をされて広まっている「ありのまま」を見かけるたびに、「こんな栄養のない言葉を活字にしていいと思ってるんだなあ」と、なんだか気持ちがしぼんでしまう。誤読について自覚的でない本や書き手がこの頃特に多い気がして、本屋に行きたいとあまり思えなくなった。特に啓発本コーナーには近寄りたくない。だいたいみんな自信満々過ぎて、こっちの自信がなくなってしまう。


と、偉そうなことをいいつつ、実はわたしもまだ「唯、在る」がどういうことなのか、ほとんどわかっていない。わかっていないけれど、文脈のような矮小な枠によって捉えきれる事象ではなさそうだ、ということだけは、ここ3年ほどでやっと少しずつ感じられるようになってきた。やっぱり今年はもう少し仏教か東洋哲学の本読んでみなきゃだなあ。

20180405_深夜腹ペコのdiary

2月と3月と4月のあいだに、今年は境目がなかった気がする。つめたい風が吹いて、梅が散る。すこし晴れ間がのぞいたら、見る見る間に木蓮の蕾がうごめいて、はじけて、空に真っ白い花びらが溶けた。春の雪が桜の目覚めを誘ったかと思えば、並木道は一瞬の生殖爆発を起こし、あっという間に風がすべてを攫っていった。
ほんの短い映画のような冬の終わりと春の始まりだったな。今年は。

湯船に浸かっているときは書こうと思っていたことがあったんだけど、何だったかなあ。忘れてしまった。

最近「文章を書くことは好きですか?」と訊かれて、「ぶっちゃけわからないです」と答えた。カッコつけたかったわけでも何でもなく、本当にわからない。目的を持って何かを達成するために書くことも、目的なくこうやって何かをダラダラ書くことも、両方ぜんぜん嫌いじゃない。嫌いではないけれど、じゃあ好きですか?と言われると、それはすこし違うなと思う。マグロのお刺身のほうが好きだよ。「あれですか、呼吸や水と一緒みたいなもんで、”あるのが当たりまえ”ってやつですか?」と自分に問うてみたけれど、別にそういうわけでもない。ハーめんどくさいな、とかよく思っている。いまだって手を付けなきゃいけない原稿が一本そのままになっている。明日の朝起きたら完成してないかな、これ。くらいに思っている。
でも、これくらいの距離感で付き合い続けられる営みが他にあるか、って訊かれたら、まあ、書くことしかない。距離感がちょうどよくやれるからなんとなく続いている、というのがいちばん正しいのかもしれない。距離感は大事。他人とも、非生物とも、概念とも、場所などとも。

友人とガパオライスを食べながら「ひとつの集団に居続けるのはマジできつい」みたいな話をした。集団へのコミットは、消極的な宗教にいつの間にか入信しているみたいなもんだと思う。集団内で共有される話題とか、空気とか、おもしろいとされるものとか、そういうのがだいたい均質的になっていくし、その均質になっていくことを別に変だと思わない。変だと思わない、というのがいちばん怖いところで、「自分の見ているものや感じているものが当たり前」であるという感覚が拡張していくと「自分の見ているものや感じているものは他の人も同じように見たり感じたりしているはずだ」になる。会社の中ではわりと起こりづらいところもあるが、大学のサークルとか高校の部活とかはまさにそうなんだと思う。狭い空間に人間を複数入れておくとろくなことが起きない。と思いながらガパオライスの黄身をつついた。次はパッタイ食べてみタイ。

2018年の抱負【他人にありったけの心配をかける】

 

「元日から3日にかけて起こった出来事や見た夢、出会ったひと、感じたことなどは注意深く記録しておくべし。この3日間に出会う物事はその年一年間を象徴する」

って、聞いたことありますか?ちょっと前にこれを知って、へえ〜と思い何気なく自分の日記を読み返したら、「ああ」って、その場で膝から崩れ落ちてしまったんですよ。

 

先々月、愛していた犬が亡くなったのですが、わたしは初夢で犬が死ぬ夢を見ていました。しかも夢の内容がかなり詳しく日記に書いてあって、びっくりしたのと脱力とでしばらく動けなくなった。
犬が死ぬ夢といっても、うちの犬が死ぬ夢ではなく、アニメの絵のような夢。目付きの悪い、いかにも悪そうな不良っぽい犬が、大きな神社の長い階段を登っていくところから夢は記述されていた。その神社には(黒い犬の家族ではない)犬の大家族が住んでいて、そのなかに黒い犬は飛び込んでいく。最初は悪さばかりしているんだけど、少しずつその家族の仲間になっていって、最後は家族の犬全員に看取られて輪の中心で死ぬ。犬の大家族はみんな泣いたり笑ったりしながらその犬にお別れの言葉を言うんだけど、死んだ犬はとても幸せそうに目を瞑っている―ここまでがわたしの見た夢です。

 

うちの死んでしまった犬は悪い犬ではなかったけれど、最初は病気と皮膚炎でぼろぼろになっていたのをわたしが拾ってきて、それから13年8ヶ月の命を生きた。最初はぜんぜん家族に馴染めなくて、母親がノイローゼ気味になったり、犬のために一軒家を買ったりなどてんやわんやしていたけれど、最後は家族に看取られて亡くなった。幸せそうな顔をしていたかはわからないけれど、わたしが最後に病室に飛び込むまでギリギリ生きていてくれて、みんなで体に触れたほんの数分後に逝ってしまった。動物病院の先生は、「家族がみんな来てくれたから、もう逝こう、って自分で決めたんだと思います。よく生きましたよ、ほんと。山場を3回も4回も越えて、みんなが来てくれるのがほんとうにうれしかったんだと思います」と、わたしたちに言ってくれた。


夢と同じじゃないか!と、犬のことをしばらく思い出す。元気な姿も、死に際の姿も。やっぱりかわいいなあ、死んでからもかわいいなんて、間違いなく天才に違いない。

 

って犬の話になっちゃったんですけど、本題はここから。

 

この「元日から3日間」の話をふと思い出して、今朝母に話してみました。見た夢と犬の話も。そしたら母が半笑いのような泣きそうな顔になりながら、「ちょっとやめてよ」と言いました。
聞けば、あなたにその話をされていま思い出したんだけど、と言いつつ、こんな話をしたのです。

 

「何か、とにかく避けようのないもの。天災なのかなあ、病気や交通事故ではなくて。地震なのか、津波なのか、よくわからないけれど、とにかく天災。で、その天災が来て、ママは夢の中でリナ(妹)を心配していたの。リナはどこ?リナは無事なの?って。で、あなたのことは最初頭になかったの。あの子のことだから無事だろう、大丈夫だろうと思って。そしたらひょっこりリナが帰ってきて、リナは無事だったんだけど、気づいたらあなたがいなかった。びっくりして大慌てで必死になって探して、そしてあなたが死んでしまっている夢を見たの。とにかく天変地異よ。お正月からなんでこんな夢を……と思って、リナには話したんだけど、あなたには話していなかった。それをね、いま思い出したの」

 

こわ〜い!というより、いやなことを思い出させて申し訳なかったなあという感じでした。
もちろん、先の「元旦から三日間」説は科学的に根拠があるわけでも何でもないし、一種のジンクスや都市伝説のようなものだと思います。更にたまたま近い事例をわたしが体感したから「ほんとうにそうなのかもしれない」と感じさせる条件が揃っているだけで。

 

とは言え、とは言えです。生まれが寺であることもあり、わたしはけっこう目に見えないものを信じます。縁とか因縁とかね。信じていたほうがなんか良い感じなので。だからたぶん、2018年の6分の1が終わったタイミングで「あなたが死ぬ夢を見た(しかも現実化する可能性があるかも?)」と聞いたのは何かしらの縁なのかな、とうっすら思います。単純な「身の安全に気をつけなさい」以上に、もうすこし奥深いメッセージを孕んでいるような。

 

昨年言われて衝撃的だったことのひとつに「心配をかけられるとうれしいのでもっと心配をさせてほしい」という言葉がありました。わたしはひとに心配をかけるのが何より嫌いで、他人に気苦労をかけさせることを心底申し訳なく感じます。「わたしがいなくなっても、誰にも気づかれず思い出されず、しずかに忘れ去られたい」と小さい頃から考えてきたような子どもでした。心配するくらいならわたしのことなんて忘れて!と大声で叫びたかった。誰かに心配されるのは出来が悪い証拠で、心配をかけるのは迷惑なことだと信じて疑わなかったのです。

 

母は見た夢について「あなたは大丈夫、と思って全く心配していなかったんだけど」と語っていた。もしかしたらわたしが母の夢の中で死んだのは「心配をかけないように振る舞った」せいだったからなのかなあ、と思います。どんなにドン底に落ちてもぜったいに這い上がる生命力と気概だけがわたしの武器です。しかし、それはほんとうに武器なのか。ひとりで生き抜くためには武器になるのかもしれないけれど、家族とか、友だちとか、パートナーとか、仕事仲間とか、そういうひとたちと生きていく上では、ほんとうにそれはいつでも武器になるのだろうか。そんなことを考えるようになりました。


わたしは大丈夫。生命力と気概がある、おまけに若くて知恵もある。だからわたしのことは、心配してくれなくて大丈夫。お願い、そっとしておいて。誰かに心配されたり世話を焼かれたりするのが大嫌いなの―そういう思い込みが、もしかしたら今年わたしを殺すのかもしれないなと、ふと思ったのです。

 

だから、ひとつの生存戦略として、今年はたくさんのひとに心配をかけようと思います。

 

たとえば、ちょっとでも困ったことが起きたらすぐに誰かに相談するとか、彼氏に真夜中に電話をかけ「もう無理さみしくて死にそう今から迎えに来て」ととんでもないワガママを言ってみるとか、つらくなったら大声で泣いたあとバカみたいにデカいチョコレートペフェを食べてお腹を壊すとか。(ほんとうのことを言うと、年末年始に体調を思いっきり崩して既にそれなりの心配を周りにかけているのですが)

もういっそのこと遠慮せず、図々しく他人に寄りかかって、頼って、ヘルプを求めて、「弱いヤツ」をやっていこうと思います。いままで他人に見せようと努めてきた「元気でテキパキ仕事をこなしている優秀なわたし」の像は捨て、「生きて外に出てコミュニケーションをとれれば120点」のスタンスに切り替えようなかな、と。布団の中で無事に目を覚ました時点で70点はあげられる。布団から出て着替えてご飯を食べれば100点。ひととコミュニケーションをとれれば120点。仕事ができれば200点。良い仕事ができたら3億点です。

考え事をして睡眠不足が続いたら「ちょっと最近体調が悪くて……」「睡眠が足りていなくて……」と堂々と言い放ち、堂々と仕事をストップします。ここはわたしがやったほうが速いから!と線引きをするのではなく、線なんて引かず、「頼むよ〜〜あなたわたしより仕事できるじゃ〜〜〜ん」なんて言いながら、他人を頼りに頼ってなんとかやっていこうと思います。

 

みんな一年のはじめのたった数日で新年の抱負を決めちゃうけれど、早くない?わたし、2018年の6分の1を生きてやっと今日「それっぽいもの」ができたよ。抱負と言うにはなんだかマヌケな抱負ですが、2018年2月4日をもって24歳にもなったので、2018年と24歳の抱負をまとめてこれにします。


他人にありったけの心配をかける、です。

 


最後に、わたしの一番好きな短歌を皆さんに贈ります。石井僚一さんという若手歌人の作品です。


生きているだけで三万五千ポイント!!!!!!!!!笑うと倍!!!!!!!!!!

/石井僚一「瞬間最大風速!!!!!!!!!!!!!」

 

 

diary_20180205

 

2週間前に東京に覆いかぶさった深雪がいまだ溶けず、交差点の側溝に溜まっている。夜など、ふと眺めると人がうずくまっているように見えて一瞬ぎくっとする。泥と汚れで雪の気高さをすっかり失ってしまったこの塊、春まで解けないのかな。見るたびになんだか切なくなって、外を出歩くのがすこし嫌になる。

 

 

音が身体に刺さるような感じがここ数週間特にひどくなり、繁華街や電車はおろか、自宅近くの幹線道路にもなるべく近寄りたくない。自動車が横を通り過ぎるたびに回転する音のつらなりが空気に残って、それがじんじん肌にくる。何を言っているかさっぱりわからないと思いますが、わたしにとってすべての生活音はこういうもの。

 

 

犬の遺骨をネックレスにいれて首から下げていたのだけど、存外に重たい感じがして、外したらふっと胸のあたりがゆるまった。まだ身につけるべき時期ではなかったのかもしれない。

 

 

新聞のスクラップの整理に収拾がつかなくなってきた。集めた記事を振り返ってみると、電化製品とか、働き方についての内容が多い。社説もたまに切り抜くけれど「自分ならこう書く」という妄想がブワブワ膨らんで時間をどんどん盗んでいくので、あまり読み返したくはない。

 

 

寒い。寒い中を歩くだけで元気がなくなる。牛車に乗りたい。今月は『とはずがたり』を読んでみようと思います。

 

どうしてちゃんの「わからない」お作法

 

冗談ではなく、毎日20回くらいは「わからんなあ」と思う瞬間がある。あくまでも、淡々と。何かに苛ついたり絶望したりというわけではなく、純粋に何かをわからないと感じる瞬間が毎日20回くらいあるのだ。本を読んでいても、ニュースを見ていても、人の話を聞いていても、SNSを眺めていても、文章を考えていても、かならず「わからんなあ」がどこからともなくやってくる。実際に口に出して言うこともあれば頭の中だけでつぶやくこともあるし、本などが手元にあるときは「(ここ)わからん」と直接書き込むこともある。

 

物心ついた頃から、「わからない」は最も近しい友人だった。いまもそうだけど、子どもの頃からこまっしゃくれた「どうしてちゃん」だったので、いろいろなことについて「なんで?」「どうして?」「それ何?」と訊いて回っては大人たちに鬱陶しがられた。実際、「なぜ」という問いは必ずしも歓迎されるわけではない、ということが歳を重ねるに連れてわかってはきたけれど、やっぱり根本的に「どうしてちゃん」はやめられないのだ。カエルが皮膚呼吸をしないと死ぬのと同じようなものなのだと思う。

どうして「わからない」と感じる瞬間がこんなにも多いのか(ほらまた「どうして」!)と考えてみると、おそらくわたしは「わからない」を「わからない」ままにしておくのが怖いのだと思う。あとは、自分が何をわかっていて何をわかっていないのかをわかっていたい、という気持ちがたぶん強い。そして「わからない」を考えて自分なりの「なるほど」に辿り着くのがけっこう好きだ。この3つが合わさると立派な「どうしてちゃん」が出来上がる。

 

余談だが、わたしはお化けがこわい。大嫌いだ。心霊スポットなんて死んでも行かないし、遊園地のお化け屋敷もなるべく行きたくない。なぜかというと、お化けはわたしにとって徹底的に「わからない」ものだからだ。死んでまでしてこんなにもしちめんどうくさい現世と関わりたいというモチベーションが高い時点でわけがわからない。起業家かよ。ビジュアルもヤバい。血がドバドバ出たり目が片方腐り落ちたりしたまま歩いているとか信じられない。まず手当てをしろ。せめて傷を隠せ。生きている人間に対してあまりに配慮がなさすぎる。しかも出現するタイミングがランダムすぎて完全に予測不能。ヤバすぎる。ぜったいに遭いたくないのにいつ出くわすかまったくわからないのがいちばんこわい。一から十までなにひとつわからない。だからお化けは大嫌いです。

 

さて、お化けは置いておくとして、20回/日のペースで「わからんなあ」を23年やってみて、「わからない」についてわかったことは少しずつ増えてきた。備忘録も兼ねて書いておこうと思う。

 


1. 「わからない」は「理解できない」「納得できない」「予測できない」のおおかた3つに分類できる。

1日20回の「わからんなあ」を分類してみると、だいたい5:2:3くらいの割合になる。そして「何がわからないかわからない」という状態の8割方は、いま抱えている「わからない」がこの3つのうちどれであるかを見極めれば、半分くらいは解決する。理解ができないなら理解できるまで調べるか他人に訊けばいいし、納得ができないなら自分の視点との違いを意識して考えてみればいいし、予測ができないなら仮説を立てる材料を探せばいい。たまにこの3つのどれにも当てはまらない「わからんなあ」が発生するけれど(だいたいそういうときは何もかもを投げ捨てて南の島へ逃亡したいときだ)、モヤモヤした気分を解決するには、この3つのうちどれを解消すれば問題が解きほぐされるのかを見極める必要がある。もちろん見極めたからといってすぐに問題が解決するわけではなく、誰に訊けばいいかわからないとか、言語の壁があるとか、仮説を立てようにも適切なソースが何であるか見当がつかないとか、そのような次なる事案にぶつかるわけだけど、少なくとも「わからない」を解消するための最短ルートを見つけること(=分類をしそのカテゴリに適した解決方法をとること)が解決への第一歩だ。そしてこれは、やればやるほど見極めもルートの探索も早くなる。

 


2. 違う種類の「わからんなあ」を同時に3つ以上抱え込むと気持ちが厳しくなってくる

現代人の多忙なる皆さまにおかれましては、種々の悩み事の尽きないことと思う。仕事、世事、生活、健康、恋愛、家族、人付き合いなどなど、「わからんなあ」と思うタイミングは星の数ほど巡ってくる。
わたしはマルチタスクが死ぬほど苦手だ。だから必然的に「わからんなあ」と思うことについて考えるときはひとつのことについてしか考えられないのだけど、たとえば「仕事」「いま読んでいる本」「人間関係」の3つにおいて同時にまったく違う「わからんなあ」が発生すると、まったく心が休まらなくなる。「わからんなあ」を常時いくつか待機させてしまうと、別の考え事をしているあいだもそれらのバックグラウンド処理で脳のメモリーが使われる。それに目の前のひとつを強制終了させても、待機しているそれらが次々に現れるので、結果ものすごく疲れるのだ。そして「わからんなあ」をやりすぎると、わたしは気持ちがあっという間にダメになる。「こんなにわからないことが多いなんてもうおしまいだ」という気持ちでいっぱいになり、ほんとうはそんなことないのに、何もかもがわからないように思えてしまい、お先真っ暗な気分になる。これは非常によろしくない。
大切なのは、「わからんなあ」を同時に発生させないよう、あまり多くのことに気を取られすぎないことだ。特にわたしのようなどうしてちゃんは、PCを触っているときはノートや本をしまう、書き物をしているときは電子機器の電源を切る、など、物理的に情報が入ってくるもとをシャットアウトする必要がある。同時並行で複数の「わからんなあ」を抱えることはiPhoneで言うならば、ツイッターとラインとメッセンジャーをひらいたままYouTubeで動画を見ているようなものだ。電力とメモリーはなるべく省エネでいかなくてはならない。そして健全な気持ちを守るためにも、なるべく「わからんなあ」を同時多発的に発生させてはいけない。

 


3. わかるとわからないの線引きをすると思考の整理がすみやかになる

最初に述べたとおり、わたしは、何がわかっていて何がわからないのかがわからない状態に多大なるストレスを感じる。部屋が散らかっているのは見過ごせるが、頭のなかが散らかっているのは大嫌いで、欲しい情報やそのときの最適解をすぐに組み立てられないことが死ぬほど嫌なのだ。おそらく2で述べたことともすこし関連していて、「なにがわからないのかわからない」になると「もうぜんぶダメだ」になりやすいからというのも、この状態にストレスを感じる理由のひとつだと思う。
よく「考えていることを整理する」という言い方をするが、これは「どのような道筋で現在の解が導かれたのかを再度辿り直してみる」ということで、その辿り直しの過程に「わかっていることとわからないことの線引きを明確にする」という動作が含まれる。この線引きには大きな意味があり、なにがわからないのかをわかると、「わかりたいこと」に対してその「わからないこと」をわかる必要があるのかどうか、必要があるならば、どの程度の深度でわかる必要があるのかが見えてくる。特に生真面目な人間の頭は欲張りなので、何かを学ぼうと思うときにとりあえず目につくすべての情報を自分のものにしようとしてしまう。しかし実際のところ理解や記憶に使う思考力は希少資源だし、ほんとうにわかる必要があることというのは、解を出す上で実は大して多くなかったりもする。「わからんなあ」はあくまでただの「わからんなあ」であって、「だからぜんぶわからなきゃ」とは違う。そこを勘違いしてしまうと、あっという間に情報の波に飲まれ、考える事自体が嫌になってしまう。線引き、しましょう。

 


なんとなくここまで書き連ねてみて、「わかる」「わからん」がゲシュタルト崩壊してきたのでそろそろ終わりにする。ここまで話してきたのはあくまでも「自分ひとりでわからないことについて考えるときのこと」であって、ほんとうは「わからんなあ」と感じたら、すこしそれを寝かせたあとに他人にバーっと喋ってしまうのが一番いい。喋っていると自分が何につっかえているのかがわかるし、聞き手からフィードバックももらえる。何より「聞いてもらった」という満足感で、なんとなく気分が良い感じに収まってくれる。もしわたしがこのまま歳をとって結婚もせず家族も作らず一人暮らしをしていくことになったら、頭の良いオウムをたくさん飼って話を聞いてもらおうと思う。

「どうしてちゃん」はよく沼にはまって大変になることも多いけれど、生業なので仕方ない。用法用量を守って、これからもたのしく「わからんなあ」を続けていこうと思います。おしまい。

日常にかえる、とは

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犬、あっという間に逝ってしまった。肺炎を発症してからわずか2日半だった。2日半しか苦しまずに命の最後を全うできた、と考えるとすこし救われる気もするけれど、亡くなってからここ数日間、時間感覚が吹き飛んでしまっている。

 

これまで、「かなしい」という気持ちがどのような気持ちであるか、わかっていると思っていた。たとえば希望が叶わなくてかなしい、フラれてしまってかなしい、努力が報われなくてかなしい、とか、具体的な場面を挙げればいくつも出てくる。そうした場面にはいつも「かなしい」という気持ちが志向する対象があったし、その対象や事が起こった瞬間を考えたり思い出したりすると、胸がギュッとしたり、頭がどよんと重くなったりして、そのときに身体中を這うようなあのじわじわとした感覚を「かなしい」と呼ぶのだと思っていた。

しかし、亡くなってからこの4日間、わたしのなかには「犬のことを考えて”かなしい”を感じる」と明確に意識された瞬間はほとんどなかった。犬のことを具体的にあれこれ思い出しているわけでもないのに頭がぼーっとして、何も考えられなくて、わけもわからず涙がでる。涙がでる理由はほんとうにわからない。犬と散歩をした道を歩いても、お線香をあげても、お気に入りだったレタスをちぎっても、特別な情動が湧いてくることはない。なのに、ふとした瞬間に頬が濡れているのを感じて、手をやると涙が出ている。この感じを「かなしい」と呼ぶのだとすれば、わたしはわたしの辞書にある「かなしい」の項目を大幅に書き換えなくてはならない。これは、まったく自覚的な感情ではない。

 

犬が死んでしまっても、わたしの日々は変わらずに規則正しい時間を刻んでいく。犬はこのさき永遠に13歳7ヶ月のまま肉体の時間を更新することはなく、わたしの肉体は少しずつ女に、母に、おばさんに、おばあちゃんになっていく。そうやって自分だけ時間が進んでいくことの実感をいまはぜんぜん得られないけれど、目に見えないかたちで犬がいるようになったことを身体でも心でも感じられるようになったとき、「気づいたら、いつの間にか」くらいのさりげなさで、いつもの生活を取り戻しているのだと思う。これまで知らなかった「かなしい」を知って、見えなくなった犬とともに。

 

長い旅行から帰り、自宅まで残り3分くらいの近所を歩いているときの「もうすこしでいつもの生活に戻る手前の瞬間」がけっこう好きだ。その瞬間を感じるとき、胸のなかに独特な感触がある。声にしたら「アー」と漏れる意味のない嘆息のような、安心感と、すこしの疲れと、たのしかった思い出への満足感と、日常をふたたび動かすための準備に面倒くささを感じているような心持ち。いまはどうにもこうにもどうにもならないので想像がむずかしいけれど、どこかであの「いつもの生活に戻る手前の瞬間」を待っている自分がいる気もしている。その自分に会いに行こうと腰を上げたとき、きっとわたしは日常にかえるのだ。進むことも戻ることもない犬の身体を置いて、透明になったやつとともにまた歩んでいくのだと思う。

 

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花束を背負って透明になったきみへ。骨までかわいいなんてきみは天才か?おつかれさま。犬のかたちをして会いに来てくれてありがとう。