羊とメトニミー

伏流水のなかに棲んでいる

「風が吹けば桶屋が儲かる」には宇宙がある

 

予備校で小論文の講師を2年ほど続けているなかで、必ず生徒に投げかける質問がある。

 

風が吹けば桶屋が儲かるっていうことわざ、あれさ、どうして風が吹くと桶屋が儲かるか、知ってる?」

 

ほとんどの受験生はこのことわざを知っているし、これを読んでくださっている皆さまもきっと耳にしたことがあるでしょう。

 

2年間で15名以上の生徒をみてきたが、「風が吹くとなぜ桶屋が儲かるのか」を知っている生徒は、今までひとりもいなかった。

この質問をしてしばらく回答が出てこないとき、「分からなかったら想像でいいよ」と言うと、生徒たちは大真面目に大変おもしろい回答をしてくれる。今までの答えで一番のお気に入りは、「ねこが…どこかに…出てきた気がする…」と言う高校3年生の女の子に「そう!ねこ!ねこ出てくるよ!」とヒントを出したところ、「風が吹くと、ねこが寒がって家中の桶に隠れてしまい、桶が全部埋まってしまうので、みんなが桶屋に買いに行って、儲かる」というものだった。「(あなたの想像力がいとおしい…)」となった。

 

 

正解は後ほど発表するとして、この「猫が桶に隠れる彼女」の説明はある意味で正しい。一見「そんなのありかよ」と思うが、ここに論理的な破綻はひとつもない。小論文の性質として、「どんなに突飛な発想に見えても、そこに矛盾や綻びのない構造のある文章は正しく美しい」というのがあると思う。この価値基準はけっこう好きだ。それが人を傷つけるかもしれないだとか、絶対悪だとか、普通はありえないとか、そういう人間の感情や色眼鏡を一切抜きにして、「論として正しいステップ」が示されている文章は興味深い。どんなマッドサイエンティストが書いた世界破壊計画でも、そこに矛盾のない、あるいは矛盾を包含しつつもその不完全性にきちんと対処がなされている文章ならば、読んでみたいと思う。正しいステップを踏んだ論理がある種の真実を言い表している様子は、たとえそれが多少辛辣であってもうつくしいと思う。

 

 

話がそれてしまった。今回したいのは、「風が吹けば桶屋が儲かる」ということわざから、「問いのたて方」が学べるという話だ。

 

 

「自分の意見」とは何か。わたしは長いことこの問いに苦しめられてきた。「自分の意見を書きなさい」と小学校、中学校、高校の授業で言われるたびに、「意見って何…」と呆然としていた。

確かに、ある提示されたトピックについて思うところはある。しかしそれはなかなかうまく言葉になってくれなかった。「スカートを短くすることを禁止する校則の是非」というトピックについて「別に個々人の自由だし短くしてもいいんじゃないかな…」と思っても、「個々人の自由なので禁止しなくていいと思います」という一文を紙に書きつけてみると、なんとも味気ない。言いたいことのはずなのに、言いたいことの大事なところが言えていないような気がする。何か、もっと言わなくてはならないことがあるような、けれど見えないのでそれは「ない」のかもしれない、と勘違いしているような。

 

気持ちは空気に似ている。目に見えないのに、あるのだ。

 

そんな思いを抱えていたとき、わたしは初めて「風が吹けば桶屋が儲かる」ということわざに出会った。確か高校2年生の頃だった。これを初めて目にしたときの興奮と感動は今でも覚えている。初出では桶が箱になっていて少し違うのだが、江戸時代の世間学者気質という浮世草子のなかで、このことわざは初めて世に出た。

 

「風が吹くと砂が舞い、目に砂が入る。目に砂が入ると失明する人が増え、失明した人びとは、三味線を弾いて生計を立てるようになる。三味線には猫の皮が使われているため、三味線がよく売れるようになると猫が減る。猫が減るとねずみが増える。ねずみは桶をかじるので、桶屋が儲かる」

 

 

すごい。すごすぎる。

当時16歳だったわたしは、「風が吹けば桶屋が儲かる」に宇宙を見た。

 

あまりにも突飛すぎる発想。しかし完璧な論理展開。目に砂が入ったごときで失明するわけがない、などというツッコミを入れる隙もなく、わたしはこの論の完璧な道筋のうつくしさに眩暈を覚えた。面白いのは論理展開の完全性だけではない。「風が吹く」と「桶屋が儲かる」は、その突飛さが相まって見えづらいのだが、まったく矛盾しないのだ。2つの事象は同時に存在が可能で、そして一見関係がないのに、つながりがある。宇宙だ。すごい。

 

 

その感動から6年を経た今、わたしが生徒たちに「風が吹けば桶屋が儲かる」問答をするのには2つの理由があり、これは先の問い「自分の意見とは何か」に対する答えでもある。

 

風が吹けば桶屋が儲かる」という言葉を聞けば、誰でも必ずこういう問いを返せる。

 

「どうして桶屋が儲かるのか?」

 

「どうして」は、テーマに対する問題提起にうってつけである。どんなに熟練した研究者も、文字を知らない幼稚園生も、「どうして」という小さな穴を問いにあければ、そこから様々な世界が広がっていく。そしてその問いに対して、もっとも確からしい答えを探し当て、そこに至るまでの道筋を示すこと。それこそが「自分の意見」なのだ。ゆえに、「自分の意見を述べよ」と問われたら、まずは「どうして」から始め、解に至るまでの道筋を矛盾なく示せれば良い。そうすれば、風と桶屋ですら繋がることができる。

もし道筋に矛盾が生じても、焦ったり諦めたりする必要はない。文章のいいところは、それまでの道筋のなかに必ず答えの手がかりが落ちているところだ。「何か説明がつながらない」「うまく説明できていない気がする」と感じるときは、それまで書いた文章のどこかに綻びがあるか、なにかしらの「見えない前提」をすっ飛ばしている。特に後者のような「ないもの」は、たとえば価値観や常識や感情だったりして、目で直接見ることは難しい。しかし文章という形を通せば、「ないものがある」ということに気づくことはできる。この勘ばかりは量を読んで書いて磨いていくしかないのだが、文章は読めば読むだけ、書けば書くだけ絶対に失われず蓄積されていくので、ひたすら続けていけば必ずできるようになる。

 

更に加えたいのは「どうやったら桶屋はもっと儲かるのか」という視点である。これはサイエンス寄りの視点であるが、「どうして」という問いに慣れたら、ぜひ「どうやって」を考えてみてほしい。「どうやって」は文脈に依ってはワンランク上の問いとなる。善悪の価値基準が入り込む場合があるからだ。この「どうやって」の問い方については、長くなるため、後日また機を見て書いてみようと思う。

 

 

16歳の当時、それなりに思春期を迎えていたわたしは、「どうして?」と訊いたときに「それはそういうものだから」「みんながそう言っているから」という答えを返されるのが苦手だった。「それ」ができた理由を聞いてるんじゃん、みんなって誰よ、と思っていた。だからこそ、「風が吹けば桶屋が儲かる」はひとつの救済であった。答えが見つからず息の詰まりそうな日々の中、このことわざはたった11文字で、「納得とはこういうことなのか」ということを教えてくれた。

 

問いをたてる営みは、年齢を重ねるごとに忘れられがちになる。研究者はもちろん問いをたて続けなければならないが、そうではない人びとが日常の生活においての疑問や違和感に対して問いをたてると、けっこうよく傷つくし、考えても答えがないように思われがちだ。そして実際、「それはそういうものだから」で済ませてしまったほうがコストもかからず傷つきもしない。代わりに魂の柔らかい部分がゆるやかに壊死していくような心地がする。

わたしは、恐れることなく問いをたてつづけていたい。歳を重ねて、「あまり傷つかない、けれども有益な問いのたて方」も少し分かるようになってきた。問いをたてることは、自分の存在の輪郭をなぞる行為である。自分が何をどう考えていて、何を良しとしていて、何を悪いとしていて、何を常識だと考えているのか。そういった基準すら、実は主観と環境による思い込みのコレクションに過ぎないが、これらを自覚するだけでも、他人とのコミュニケーションや問題解決が格段に楽になる。答えが見つからないときは、風が吹けば桶屋が儲かることを思い出してほしい。正論がいつだって正しいわけじゃない、正しいことを言えばいいってもんじゃない、と、正しさはたいてい隅に追いやられがちだが、混沌のなかにも必ず救いのある正しさがあるということは、忘れず心に留めておきたい。