きみのお祭り

死ぬまで盛り上がっていけ

「若者よ、選挙に行こう」なんて無責任な煽り方しないでほしい

 

 

先に申し上げておくが、わたしはこれからもこの先も、支持不支持を含め特定の政治家や党に対する私的な見解をインターネット上で表すことは決してないし、個々の思想やポリシーについて言及することも決してない。もちろんネット上の論争に関わる気も全くない。

この記事はあくまでも、「政治」というひとつのトピックと、若者と呼ばれる人びとの関係性について私見を述べたものだ。そのことだけご留意いただきたい。

 

 

さて、公職選挙法が改正されて選挙権が18歳から与えられるようになったこともあり、最近街中でやたらと「投票に行こう」「選挙に行こう」というポスターを見かけるようになった。ポスターの背景には女子高生や若い女性の写真が使われ、いわゆる「若者」と呼ばれるわたしたち20代に投票へ行くことを訴えかけてくる。また、昨今のデモやインターネット上での情報発信などを概観しても、若者に対して「選挙に行こう」と訴える熱気には凄まじいものがある。

 

 

今朝、非常に衝撃的な体験をした。

 

わたしには3つ歳の離れた20歳の妹がいる。彼女はとても普通の大学生だ。頭が悪いわけでもなく、情報感度はそれなりに高くて、SNSを使いこなし、「流行りもの」にはそこそこ敏感だ。特に政治や経済といったトピックに深い関心を寄せることもなく、日々はバイトや彼氏、サークルの飲み会、ファッション、大学の課題なんかに埋め尽くされている。

 

そんな妹が、明日の参議院選挙を控え、こんなことをポロッと言った。

 

 

xx党に投票したら徴兵されて戦争になるかもしれないんでしょ?友だちが言ってた!怖いからあたし絶対そこに投票しない」

 

 

あまりの突然の発言にびっくりしてしまい、思わず

 

xx党に投票したらどうして戦争が起こるかもしれないって思うの?」

 

と訊いたら

 

「えっ、分かんないけど、徴兵?とかがあるってなんか言われてるし、兵隊に行くってことは戦争に備えるってことなんじゃないの…?友達も皆そう言ってたよ。ツイッターとかでもなんか若い政治家の人とかがすごい盛り上がってて、同じようなこと言ってる人もいたりしたし…」

 

「じゃあ、少し質問を変えるけど、そのxx党が与党になったら具体的に日本の政治がどういう方向に変わるか、考えたことある?」

 

「……?」

 

という感じであった。

 

 

正直、この出来事は本当に衝撃的だった。その党や政治家の政策や見解がどうこう、という話ではなく、標準的な「若者」と呼ばれる彼女のリテラシーの在り方に衝撃を受けたのだ。

 

もちろん、妹が政治というテーマに関してこれまで疎すぎたのは間違いない。しかし彼女とのやり取りを通し、「一般的な若者」のリテラシーのリアルな在り方を文字通り肌で感じたように思えたのだ。パワーワードやインパク(たとえば戦争になるだとか)に感化されやすく、煽られやすく、駅前で声を枯らして正義を主張する政治家の熱弁より「同じクラスのナントカちゃんの話」のほうが信じられる。一言で言えば、リテラシーが弱い(それなりに知識や考える力がある中間層であるにも関わらずリテラシーが弱い若者を、仮にふわふわ系と呼ぼう)。しかしリテラシーが弱いのは彼らばかりが責められる話ではなく、玉石混淆から自分が正しいと感じる選択肢を選ぶ力を養う機会や、そもそも抽象的な概念についての判断を下す、情報を取捨選択するという発想を教育課程でほとんど与えられなかったことにも一因はある。

 

 

歳が近い2025歳程度のわたしの友人たちのなかには、政治に強い関心を抱いて積極的に運動などにも参加している人が何人かいる。彼らのほとんどは非常に情報リテラシーが高く、支持政党や国政に対して一定の理解を得た上で政治活動に参加したり、意見を表明したり、ネット上で特定の政治家を応援していたりする。わたし自身は政治に然程関心はなく、選挙が近づくと各政党のポリシーと国内情勢を見比べて2,3日投票先を悩む程度である。また学部柄、政治に対して関心を寄せながらも中立的な立ち位置から言及し、情報は取捨選択すべしと学生に常々言い聞かせる教授が多い。自分が偏っている自覚は特にないし、学部を通して情報を正しく見極めて取捨選択する力や感度もそれなりに培ってきたと思う。

 

そんな環境に5年間身を置いていることもあり、あたかも自分の世代の多くが政治についてそれなりの関心を持って正しい情報を探しだし、自分の頭である程度考えて選ぶ力を持っていて当然だと無意識のうちに思い込んでいた。

だから、妹の発言は非常に衝撃的だったのだ。「友だちに聞いた」「徴兵制になると戦争に行くかもしれない」という頼りなさ、論理の不明瞭さに対して違和感を抱くこともなく、その曖昧さで「まつりごと」に参加することに対する自覚もない。しかし、この在り方こそがきっと「これまで政治に深い関心を寄せることのなかった若者」の標準的な在り方のひとつなのだと思う。

 

 

大人たちが呼びかける「若者」のなかには、それなりの数、彼女のように「疑うこと無く簡単にアジテートされてしまいがちなふわふわ系」がいる。しかし、政治に参加せよと呼びかける大人たちの多くは、そのことをほとんど知らない、というより、想定していないのではないだろうか。自分たちの発する言葉に対し「それを受け取る側の若者にも自分と同程度のリテラシーがあるだろう」と無意識のうちに思い込んでいるはずだ。人は「自分ができること」を「他人がどれくらいできないか」について、かなしいくらい分からない。

 

ここでやっと本記事のタイトルに触れられる。

 

妹との一連のやり取りを通して、ふわふわ系の若者に必要なのは、「選挙に行こう!」という投票を目的とした呼びかけではなく、「まずは政治をきちんと学ぼう」「学んだ上で自分にとって重要であると感じる論点を考え、投票に行こう」という二種類の啓発と「正しい情報の提供と、適切な取捨選択の方法を早急に身につけさせること」であるということを強く感じた。

更に付け加えれば、後者を積極的に行っていくことで、政治はより万人にひらかれたテーマになる。

 

 

若者が政治に関わりたがらない理由のひとつとして、政治という言語の閉鎖性が考えられる。閉じている、というのは「特定の人びとに向けてしか発信されない」ということだ。先も言及したように、教養人や政治家の多くは、受け手のリテラシーの程度についてあまり関心がないように感じる。そして頭がいいからこそ、「分からない人びとは何を分かっていないのか」について理解することが難しい。

最近では政党のマッチングサイト(http://nihonseiji.com/votematches/1) なども作られ、以前よりはずっと多くの人びとにひろく政党ごとのポリシーや方向性が知られるようになった。しかし、リテラシーの身につけ方を含め、まだまだこれだけでは全然足りないように思う。この国において政治や経済を動かすのは人口の大多数を占める中間層の人びとである。今後その中間層となってゆく若者たちに対し、政治をよりひらく仕組みを作っていくこと。そしてわたしたちが早急に無知を自覚すること。これこそが今最も求められる姿勢なのではないかと思う。

 

 

今後もきっと数十年にわたり「若者も選挙に行こう!」「若者も政治に関心を持とう!」という動きが活発化していくだろう。しかし、そんな無責任な煽り方をすべきではないのではないかと思う。「選挙に行こう!」と煽られたふわふわ系は、「とりあえず実現したら嫌なこと(たとえば戦争とか、消費税がすぐにぐっと上がるとか)」を避けるだとか、「完璧に実現したら最高に住みやすい国になりそうこと」を公約に掲げる政党に「おっ、なんか良さそうじゃん」というノリで投票をするという行動が予想される。またふわふわ系はなんやかんやそれなり勉強をしてきた人が多いため、「消費税には逆進性があって~」などと言われると、「高校の政治経済の授業で聞いたことある!確かにその通りだ!」と、中途半端な理解で安易な結論に達しやすい。消費税が既にすべて社会保障費に廻されているということや、社会保障費は中間層の時間的な所得移転に過ぎず、言ってしまえば「中間層を守るために未然に中間層の貧困を防ぐ仕組みになっている」ということを知っている人びとは、一体どのくらいいるのだろうか。

 

死票を作るべきではないから」「友達もみんな行っているから」と、夏フェスに行くのと同じようなノリで安易に投票に行くのは危険である。投票に行くことだけを目的化してしまうのが危険なのだ。ふわふわ系がパワーワードに煽られて投票に行き、政治を動かしているという自覚がないまま大人になっていく。これほど恐ろしい光景があるだろうか。

 

 

もちろんわたしたち若者が自発的にリテラシーを身につけることは何よりも重要だ。その上で政治に参加することも、ベクトルは違うが、同じくらいに意味のあることであると思う。せっかく今、多くの人びとが「政治に参加しよう」「選挙に行こう」という流れを作り出すことに成功し始めているのであれば、さきも述べたように、政治というものを中立的によりひらかれたものにしていくことこそが喫緊である。ひらく、というのはひとつのフレンドリーなコミュニケーションの形であり、このことは政治にかぎらず全ての物事において、「先導する人びと」の使命であるようにわたしは思う。