きみのお祭り

死ぬまで盛り上がっていけ

Nくんのはなし

 

Nくんという友だちがいる。いまは名古屋に勤めていて、文房具を売り、ときどき東京に帰ってくる。

今日、1年半ぶりにNくんと会った。上野の高架下、アメ横の国籍が分からない屋台で、二人はガタガタした椅子に座り、小籠包をつまみにハイボールを引っかけ、1時間半のバカンスをした。

 

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見よ、この完璧なうつくしさ

Nくんは高校の同級生だ。しかし、彼と在学中に喋ったことは一度もなかった。友だちの友だち、くらいの遠さで、お互いに名字だけを知っている関係だった。

卒業して数ヶ月したある日、わたしが書いたとあるブログのエントリーを読んでくれたNくんが、突然メールをしてきた。「はじめまして。といっても、高校で何度かすれ違っているので、あまりはじめまして感はないのですが…」というような書き出しではじまるメールには、「20歳になるまでに、自分をどこまで昇華させられるか、自分のたましいをどれだけ磨けるか、挑戦してみたくなりました」という短い感想が添えられていた。

こうしてわたしとNくんは友だちになった。

 

彼との付き合いはもう6年目になるのだろうか。けれども直接会って話したのは、たぶん両手で数え切れるくらいしかない。過ごした時間に思い出と名前をつけられるほどの濃密な何かがわたしたちのあいだに横たわっているわけでもない。けれど、Nくんが初めて読んでくれたわたしの文章と、Nくんから初めてもらったメールの短い一文だけで、わたしたちは十分だった。ソウルメイトやベストフレンドと呼べるほどの近しさはなくとも、いつどこで何をしているのか普段はまったく知らなくとも、なんとなく救われている感がある。彼にとってのわたしがどういう友だちなのかは知らないが、わたしにとってのNくんとはそういう人だ。

Nくんは来月24歳になる。初めて彼と会った日から、わたしたちはお互いの誕生日のすこし前になると「この一年、どうだった?」というLINEをする。タイミングが合えば会って話をしたりもする。それだけの仲だけど、わたしはなぜかNくんに一年の報告をしないとちゃんと次の年齢を迎えられない気がして、誕生日の前になるといつもラインを送る。Nくんも毎年LINEを送ってくる。会うのは年に一度あるかないか、だけど。なんとなく、救われている感があるのだ。

 

 

普段こうして日記以外の文章を書くとき、なにかとても大きくて、大きくて大きくて大きすぎて見えないものに祈りを捧げるような気持ちになることがある。つらい人を見るのはかなしいし、ボロボロになってしまったり立ち直れなくなってしまったりした人には、あたたかいスープとやわらかい布団を差し出したい。その差し出したい思いだけで、ただただ文章を書いている。書き始めた頃はどんな人にどのように届いているのかは分からないまましばらく書いていたけれど、自分の祈りのような気持ちに対して「言葉で応えてくれるひとがいる」という経験をさせてくれたのはNくんだった。わたしが初めて「伝わった」という感覚を得られたのは、彼からの一通のメールだった。どこかの、誰かの、どこかに届いている、伝わっている、読まれている、という事実が、いまのわたしの「書く」原体験だったような気がする。

 

 

いよいよ寒さが加速してきた。しかし街には秋らしさの影がまだまだやってこない。早く色っぽい銀杏を見たい。咲き乱れる花を見たい。翅がボロボロになった蝶を見たい。保温しながらやっていきましょう。明日のおやつは名古屋のおみやげ、うなぎパイです。一週間お疲れさまでした。