きみのお祭り

死ぬまで盛り上がっていけ

透明な世界

自分が存在しない世界のことを想像するのは不思議な気分だ。想像するはずの自分はいないのに、透明になって、あらゆる日常を見下ろしている。つまり、わたしがわたしの存在しない世界を想像するとき、それは常に、「わたしがいない/いなくなった世界」ではなく、「いるわたしが見えなくなった世界」でしかない。「いるわたしが見えなくなった世界」を想像できるのは、いながらにして「見えなくされた」経験や、あるいはほかの誰かを「見えなくした」経験があるからだ。ほんとうの意味で「わたしがいない/いなくなった世界」は、想像すら不可能だ。

その昔、もし自分が死んだら、あらゆる人に自分のことを忘れられたいと思っていた時期があった。どうしてそう思っていたのかはよくわからない。誰ひとりとして自分を知らない、覚えていない、そんな世界を透明になって見下ろしている想像は、なんだかとても軽やかでみずみずしく、気持ちよかった。それを眺める心のうちにさみしさはなく、またメランコリーもなかった。

たとえばわたしは、カワカミケイコさんという人を知らない。生まれてからいままで、見たことも聞いたことも、会ったこともない。もちろんそれは当たり前で、なぜならカワカミケイコさんはいまわたしが1秒で作り上げた架空の人物だからだ。けれども、本当はカワカミケイコさんという人は存在していて、わたしがカワカミケイコさんを知らないだけだとしたら(そして死ぬまで知らないとしたら)、カワカミケイコさんはわたしの世界に存在する、とほんとうに言えるのだろうか。

想像はできないけれど、誰も自分を知らず、自分のいない世界とは、存在していないと同時に、存在「しなかった」世界と言えるのだろうか。けれどそれを想像しているわたしはここにいるわけで、では、ここにいる自分は誰なのだろう。考えているとみるみるここにいる自分が透けていく感じがする。その感覚がまた、軽やかで、少しくすぐったい。そんなことを考えながら、今日もベランダから街と空を眺めている。