汽水域

海水と淡水のあいだ

安定は安心を連れてきてはくれない

「安定した企業に就職したい」と目の前の子が言う。
どうして、と問うと、「だって、そうすれば将来安泰だから」。
「安泰っていうのはつまり、何も心配しなくていいということ?」
「そう」
「安心できるってこと?」
「うん。親も安心すると思う」
「でも、いまあなたは、安泰だよね」
「?」
「戦争のない国で高等教育を受けて、帰れば食べるものと寝るところがある。友だちもいる。スマホもパソコンも持っている。何も不自由していない。安泰そのものなのに」
「でも、受験があるし、将来がどうなるかわからない」
「それは、受験が終わっても大人になっても同じじゃないかな。受験が終われば就職試験があって、それをくぐり抜けて会社に入れば昇給や昇格があって、すると、どこまでもどこまでもあなたは”将来がわからない”状態だよね」
「……うん」
「じゃあなんで、将来安定した企業に入ることが安泰だって思うの」
「……」
「そもそも、安定って、何?」
「変わらないってこと」
「安泰は?」
「心配しなくて良いこと」
「その2つの違いは?」
「……わからない。でも、安定してれば安泰だと思う」
「でも、あなたはいまは安泰なのに、心配している」
「……」
「どうして?」

 

安定と、安心。特にわたしたちの親世代とって、安定という言葉が彼らの世代を象徴しているようにも思う。「良い会社」とはすなわち「そこそこの給与をもらえて、倒産の心配がない、安定した業績をあげつづける会社」を指し、「良い大学」とは「入学すれば『良い企業』への就職が望め、将来的に高い価値(笑)が安定し続けている大学」を指す。「良い」と「安定」を同一視し、奇妙なまでにそれを信仰している人の多いこと。まるで、そこに辿りつければ何も心配の要らないユートピアのように。

安定とは一体何なのか。状態の上下がない、変わらない、そういう状態、のこと?  だとしたら、それが「良い」とされる根拠は、いったいどこにあるのか。それは「良い」と、どうして言えるのか。

安定と同列のように語られる「安心」という言葉がある。こころ、やすい。心が安らいでいること。多くの場合、この2つは意味するところが正しく区別されていない。この2つを使い分けられていない人が、「安定=良い」の構図を信じ込んでいる。だから特に親世代の人々と話をするとき、「安定」とか「安心」という言葉が出てくると、すこし警戒する。この人の語るそれらの言葉は、果たしてその内実がきちんと定義されているか。その2つの違いに自覚的であるか。わたしがそこまでこの2つの言葉の混同を警戒するのは、これらを下手に混同すると、人生が砂漠のような不安に埋め尽くされかねないからだ。

安定と安心。この2つは明確に異なる。安定は状態を指し、自分の一存ではどうにも叶えられないことがあるのに対して、安心は自分の心が決められる。多くの人々は安定が安心を連れてやってくると勘違いしがちであるが、まったくそうではない。誰もがすぐに思い当たるはずだ。どんなにお金を稼いでいようと、モテようと、好きなものを手に入れようと、漠とした不安がいつもどこまでもつきまとう状態。それは、そこに安心がないから。傍目から見たら、生活の心配がない「安定した」状態は羨ましがられるぶん、孤独感は一層深くなる。誰にも胸の内をわかってもらえないだろうという虚しさたるや。

安定は、ほんとうに自分を守ってくれるのだろうか。安心を持たずに世界を眺められなければ、いくら外的に安定がもたらされようとも、不安の種は次々に芽吹く。病気になるのではないか、事故に遭うのではないか、誰かに騙されるのではないか。昔の地位ある人々が不老不死を臨んだのは、安定を安心と取り違えたからだと思う。彼らはその地位の高さと財産の多さ、あるいは心通わせる人間関係の希薄さゆえに、いつも安心が得られなかったのだから。

安定は安心を与えてくれるユートピアではない。安心を得ている結果の状態である。安心が先にあり、そのあとに安定が来る。この順番を取り違えると、「安定して安心を得るために努力しよう」という発想になり、底なし沼にはまる。だって、安心が欲しくて安定を目指し続けているのに、安定をいくら手に入れようとしても、安心がついてこないのだから。それもそのはず、安心なくして安定はありえないから、そもそも目指している到着点それ自体が幻想なのだ。

ある種の人々から見れば、「安心」というのが、有名大学を出ているとか、大きい会社に勤めているとか、社会的地位があるとか、そういう材料から生じているように見えるらしい。実にばからしい。経歴や肩書き、社会的にどのような共同体に所属しているかは、あなたを一ミリも規定しない。証明もしない。もしそれらを拠りどころに「安心」を得ている人がいるとしたら、それは「安心」ではなく「慢心」だと思う。

安心とは何か。怯えたり恐れたりする必要がないこと。何ものも自分を脅かさず、損なわず、奪わないと知ること。安心は、不安を弾き返せるほどの強さや富を持っているから得られるわけではない。生きていくなかでかなしいことやうれしいことをたくさん経験して、人を傷つけて、立ち直れないほどに傷つけられて、愛して、憎んで、見放されて、何度も自分と他人を裏切って、ごまかして、慈しんで、どこにいくのか、自分とは誰なのか、何もかも分からなくて、それでもいまこの瞬間、どうしようもなくこうして生きているということを自覚したとき、「わたしはここに生きている」という思いがたちのぼってくる。「わたし」が誰なのかなんてわからなくても、どこへ行くのかなんて知らなくても、たしかにここに生きている。安心は決して、裕福な者や覇者だけが得られる財産ではない。あなたが、いまこの瞬間得られる、あなただけの富そのもの。

安心は、一度手に入れたら二度と失くすことがない。ときどきどうしようもなく落ちても、かならずまた戻ってこられる。激しい風雨の吹きすさぶなか、かならずまた空が見えるという確信を持って嵐を越えられるようになる。どうか、どうか「安定がすべて」なんて勘違いはしないでほしい。虚しいユートピアを虚しいままに手に入れてしまったら、安心のラットレースから抜け出すことさえ困難になる。あなたに、あなただけの富を。