きみのお祭り

死ぬまで盛り上がっていけ

2023冬 祖母の記録

そのとき彼女は、「うちの前に不審者がいる」と思った。

コンビニの夜勤を終え、深夜二時。自転車で帰路につき、自宅の敷地に入ろうとしたら、玄関の数メートル手前にうずくまっている人影がある。その人は身動きひとつせず、ちいさく丸まって、じっと下を向いているようだった。

反射的に物音を殺して足を止め、じっと目を凝らすと、なんとその人影は隣家に住人、夜勤を終えた従妹の祖母であり、すなわちわたしの祖母であった。

真冬の深夜二時、空っ風が強く吹きさらす真っ暗な空の下、祖母はひとりじっとうずくまっていた。従妹は慌てて自転車を止め、祖母を驚かせないようにそっと後ろから背中に手を当て、話しかけた。

「おばあちゃん、こんな夜中にどうしたの?」

祖母は顔を上げると、「なっちゃん?」と従妹の名を呼んだ。

「起きたら、まーちゃん(わたしの母)も、訪看さん(訪問看護師)も、ヨシノリ(伯父)も、みんないなくなっちゃったから、探しに来た」

祖母はその日、いつも通りひとりで起きて、ひとりで着替え、ひとりで顔を洗い、ひとりで朝ごはんを食べた。デイサービスの車が迎えに来て、夕方にまた送り届けられて、ひとりの家に帰り、ひとりで夕ご飯を食べ、ひとりで着替え、そしてひとりで眠ったのだった。

「みんな」はきっと彼女の夢のなかか、事実と区別のつかなくなった現実のなかにいたが、いずれにせよ祖母は深夜に目を醒まし、そうして自分がいつの間にかひとりであったことを知ったのだった。認知症だけでなく難病も患っている祖母は、ほとんどよちよち歩きで足元もおぼつかない中、杖だけを頼りにみんなを探しに行ったのだ。真冬の真夜中に、たったひとりであることのさみしさに気がついて。

「もう遅いから、一緒に家に帰ろう。おぶってあげるよ」と従妹が背を向けると、祖母は「いい、歩ける」と言い、ゆっくりゆっくり立ち上がり、地面に落とした杖を拾って、手を引かれて家に帰った。ベッドに入った祖母に、従妹が毛布をかけながら「みんなは今日はいないんだよ。たぶんおばあちゃん、夢見てたんだよ」と言うと、祖母は「あ、そうか」とにっこり笑って、「おやすみ」と、すぐに眠りに落ちたという。

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「おばあちゃんって、なんか持ってるのよねえ」

「まーちゃん」こと母は、大皿に乗ったてかてか光る黒酢肉団子を箸でつつきながら言う。

今回祖母が発見されたのは、「たまたま」従妹がコンビニの夜勤の日だったからだ。しかも従妹は、夜勤上がりの帰りは知人の家に寄り、小一時間話し込んでから帰宅するのが常である。その日はこれも「たまたま」知人の家に寄らず、珍しく真っすぐ帰ってきたところに祖母を見つけたのだった。

その前の梅雨。夏本番が目の前に迫ったうだるような午後、祖母は庭で倒れた。これも運良く伯父がすぐさま発見し、救急車を呼んで事なきを得たのだった。その日、伯父には来客がある予定だったが、これも「たまたま」その客が予定よりも数十分早く来て、伯父は内心舌打ちをしつつ、玄関先でその応対をした。客が帰って、祖母の家のほうにふと目をやると、いつもは昼間飛び回って姿を見せないはずの祖母の猫が、庭のほうを向いてじっと座っているのが見えた。あれ、と思い庭に回ってみたら、伯父の家の玄関からは死角になっていたところに祖母が倒れていたのだという。診察した医師によると、「倒れておそらく10分ほどだったので、軽い熱中症で済みました」とのことだった。

さらにその前の初冬、祖母は突然の心不全に見舞われ、玄関で倒れた。もともと心臓が弱く、そのときすでにあまり自由の利かない体になっていたが、玄関先に置いてある電話になんとか手を伸ばし、東京にいる母に助けを求めた。「胸が痛い、息が苦しい」と訴える祖母に仰天し、母は東京からすぐさま救急車を呼んだ。そうしたら、搬送された先の病院の当直が「たまたま」心臓外科のスペシャリストで、そして「たまたま」都合よく麻酔科医も居合わせていたので、その場ですぐに緊急手術が決まり、一命をとりとめたのだった。

「あの人はね、なーんか持ってるのよ。いつも、普通なら死んでてもおかしくないよねってところで、なんでか助かってる。信心深い人だからかね。雰囲気が観音さまにちょっと似てるし」

と、母はいたずらっぽく笑って、肉団子をぱくっと食べた。

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最近の祖母は、いっそう認知症が進んでいる。空腹と満腹の境目を忘れ、家中の菓子袋やパンの袋の封を片っ端から切っては母に叱られる。「お腹がすいているの?」と訊くと、「すいていないけど、見ると口がさみしい気がして」と恥ずかしそうに笑う。昼と夜の境目を忘れ、20時に床に就いたかと思うと、2時間後には起きだして、顔を洗い、着替えて居間にやってくる。「ちょっと早いけど、もうすぐ迎えに来ると思って」と、毎朝9時に迎えに来るデイサービスの車を待っている。外が真っ暗でも、時計の針が22時を指していても、彼女にとってそれは何も関係のないことなのだ。

祖母はいよいよ、彼女のなかだけに広がる世界を生きる時間が長くなった。祖母の生きている世界と彼女の周りの人びとの生きている世界のあいだには、ずれや凹凸がいくつもあって、「現実」と呼ばれる側を生きる人びとは、それらに苛立ったり落ち込んだりする。けれど当の本人である祖母は、疑うことも悲しむこともなく、5分と持たない記憶のなか、「たったいま」だけが存在する世界を淡々と生きている。日ごと少しずつ、溶けてほどけていくように。

本来きっと、世界はそういうものなのだ。確かなことなどほんとうはひとつもなく、「たったいま」だけに支えられている。瞬間の連続を、わたしたちは線と錯覚しているに過ぎない。過ぎていった時間やこれからやってくるだろう時間はすべて想像のなかにしか存在しえず、手応えのないそれらを「確からしいこと」と思い込むことで、皆なんとか足場を保っている。

わたしたちの住む世界、たくさんの約束と想像を重ねてあまりに複雑になってしまったここを、ずっと遠くの明るいほうから、祖母がにこにこ笑って見ている。色素の薄い、日が当たると橙色にきらきら透きとおる目で。

その軽やかさを、わたしはときどき少しうらやましく思うのだ。