きみのお祭り

死ぬまで盛り上がっていけ

2015.05.05

頭で考えていることと、身体を使って生きてみて実際に感じることというのはこんなにも違うものか、とよく思う。
何かを頭で考えていること、というのは、たいていの場合、何かしらを自分に納得させたいときである気がする。仮説を立ててみたり、誰かに影響されて主義主張を更新してみたり、手順を検討してみたり、腹が立つことについて整理をしてみたり。反対に、何かをじかに体験して感じているということは、理屈や論理では説明がむずかしいもの、或いは言語化すると必ず誤差が生じてしまうものに真剣に向き合うことである気がする。好きな人とじっくり話をしてみたり、長い距離を歩いてどこかに行ったり、苦手な人と一緒に仕事をしたり、モノを作ってみたり。
ずるいな、と思うのは、あんなに頑張って頭で考えたことを、往々にして身体や感覚があっというまに軽々と超えていくことあるということだ。こっちがものすごく真剣になって悩んだり怒ったり何かを飲み込んだりしながら、頭で考えうる限りの可能性や仮説をはじき出しているのに、実際にやってみたらそれのどれでもなかったようなことがよくある。生きてみて身体感覚がひとつ増えるたびに経験が更新されて、更新されたらまた頭がそのうえで考え始める。ミルフィーユのように考えてやってみて超えて考えてやってみて超えて、を何度も繰り返しているうちに、頭で考えるのがバカらしくなってくる。いくら考えても、考えていた以上のことが見つかってしまうのだ。生活というものには。
かといって考えることをまったく放置してしまうと、今度は起こっているはずのことに気がつけなくなる。虹は7色。でも人によっては30色くらいに見えるかもしれない3色くらいにしか見えないかもしれない、と考えていると100色くらい見えるのに、虹の色の数も知らないまま虹を見みると、どうみたって5色にしか見えない。そういうことがあまりに多すぎると、自分はバカなんじゃないかと不安になってきて、結局また頭で考え始めてしまう。たいへん難儀なことだ。考える、と、感じる、を交互に重ねていくのは時間がかかる。けれどそうやって時間をかけながら日々歩かないと、足が前に出ていることを実感できないので、しかたなくそうしている。


就活をしていたとき、よく「即戦力」や「直結」という言葉を見かけた。使い始めて即結果を出せる人間のほうが効率的だし、仕事をたくさんこなせるのでその分経験だって何倍速で積んでいけるだろう。けれどそうやってみんなが生きることに速度を持ちだしてどんどん加速していったら、自分が速くなるぶんみんなも速くなるのだから、相対的には何も変わらない。相対的には何も変わらないから、みんなもっと急いではやくはやくと結果を求めるようになる。そうした加速の中で、頭と身体が少しずつ削れていくだろう。
わたしのように、時間をかけなければ自分が前に歩いているか右に歩いているのか左に歩いているのか、はたまた後ろ向きに歩いているのかも分からないようなぼんやり人間は、社会ではたらく大人たちからしたら扱いづらいかもしれない。けれど、時間をかけて頭と身体を使わなければ育てられない結晶のようなものは間違いなく自分のなかにあって、それが自分を揺るがせないためのひとつの核であることもまた認めざるをえない。加速の中でいかに自分の結晶のペースを見失わずに生きていけるか。近頃、犬を撫でながらそんなことを思う。