羊とメトニミー

伏流水のなかに棲んでいる

隠さないようにかたすこと

 

 

― だまし絵のような部屋に住んでいた。

 

わたしの部屋は、2階建ての実家の1階。北側で日は当たらないけれど、東と西に大きな窓があって、風がよく通る。広さは10畳。実家で10畳の部屋をもらっていると言うとたいてい羨ましがられるが、1階の北側なので、冬の朝晩などはのたうち回るほど寒い。

 

10畳もの広さがありながら、わたしの部屋はどことなく狭かった。登山道具や大量の辞書と文学全集、カメラとレンズなど、趣味の道具にかさばるものが多いというのもあるが、なんというか、部屋に奥行きがない。ゴミ屋敷ではないし、足の踏み場ももちろんある。インテリアのような上級人間概念は全く無いが、好きなアーティストのポスターやライブグッズなどはそれなりに飾られているし、何かを床に放置していたりもしない。なのに、空間全体になんだか隙間がなく、散らかっていないのに雑然としている印象がある。

広いのに、狭い。違和感をはらんでいる。それがわたしの部屋だった。

 

 

12月31日。紅白歌合戦椎名林檎を観て、「東京事変の再来だ!」「Ayabambiはもはや東京事変のメンバーだったのでは!?」とひとりでおおいに興奮し、部屋におりたときのことである。

東側の窓の横に貼った林檎ちゃんの大きなポスターと目が合った。

その瞬間、なぜか天啓のように林檎ちゃんの声が頭に響いた。

 

「この部屋、このままでいいの?」

 

斯くして、部屋の大掃除を始めることにした。年を越すまで残り4時間半だった。

 

 

― 隠さないようにかたすこと

 

紅白歌合戦そっちのけで(でも宇多田ヒカルだけはばっちり観た。感動に打ちのめされてテレビの前から20分くらい動けなかった)、一心不乱に片付けを始めた。まずは部屋のなかの片付けやすそうなところにゴミ袋を持っていき、モノを手にとる。手にとったモノを「いまの自分はこれを手にして楽しい気持ちになるかどうか → YES or NO」という判断基準のみで判断し、NOは全てゴミ袋に突っ込んだ。

それまでの自分の片付けは「この先も使えそうか」「大切な思い出かどうか」という軸に寄っていた。しかし、この先「使えて」も、今後「使いたい」と思えるとは限らない。本当に大切な思い出はモノをとっておかなくても、既に自分の血肉になっている(はずだから)から別にいい。非物質主義バンザイ。諸行は無常である。2017年、物質の次元を跳躍せよ。というわけで、思い出の品もほとんど捨てた。クローゼット、床下収納、本棚、カバン掛け、机の中。片付け大魔神は、蛇行する列車のごとく進んでいく。

 

2017年1月1日0時0分。年が明けた。2017年がきた。2階にあるテレビから除夜の鐘が聞こえる。大掃除は終わらない。部屋は足の踏み場どころか、寝る場所すらなくなっていた。しかし手は止まらない。何を目指しているのか分からないまま、夜は更けて、モノが増殖していく。

  

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どこから出てくるのかと言いたくなるほどの物量

 

 

1月2日。終わりが見えない。初売りで調子に乗ってユニクロのパンツを6枚も買ってもらった。「パンツはたたんで小さくできるのでノーカン」というマイルールを急遽設け、気分的に事なきを得る。しかし本当に得たのはMサイズのパンツ6枚である。

  

1月3日。手を動かしながら、少しずつ分かってきたことがあった。

わたしは今まで、「片付けること」を「隠すこと」と勘違いしていた。中途半端に高機能な置き時計。直感でなんとなく操作している加湿器の取扱説明書。体育祭のことを書いた作文が載せられた高校のときの学級通信。受験期に積み上げたノート。旅行のおみやげにもらったマスコット。数年前に行ったディズニーシーで買ったシェリーメイのぬいぐるみポーチ。「かがり縫い、まつり縫いのやり方」が書いてある家庭科のプリント。部屋着としては全然着られるけど、その格好で近所の人には会いたくないトレーナー。

うまいこと、隠していたのだ。クローゼットの陰に。カバン掛けの枝に。本棚の奥に。棚の上に。「思い出」「いつか役立つ」とシールを貼ったけれど、正直邪魔だから、隠していた。本当に「いつか役立つ」ならば、それがいつなのか、どのくらいの確率で「いつか」は来そうなのか、取っておくとどう役立つのか、そこまでを想定しなくては「いつか役立つ」と言えないのだなと思った。

今までを振り返ったときに、何かが「役立つ」というのは「思いがけない」とセットであった気がする。あれが必要だけど手元にない。買いに行く時間もない。ん、待てよ、確かあのとき使ったアレ、これに使えるのでは?と思い至って、思いがけないものが思いがけないところに役立った、みたいな。だから、今の時点で「本当にいつか役立つもの」というのは、「使うとき、場所、用途が決まりきっていて、かつ、必ず使う予定があるもの」であって、ゴミにするか取っておくべきかと人を悩ませるものは、たいていの場合「使いどきやシーンが明確に思い描けないもの」なのだ。捨てよう。「そのとき」の自分がどうにかするはずだ。

 

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 1月3日の観測 少しずつ終わりが見え始める

 

 

 

― 「要らないもの」は「使わないもの」じゃない

 

わたしは、隠すのがうまかった。「週1で使うもの」が収納されているボックスの中にゴミを隠し、全部を大切にしている気になるのがうまかった。

 

最初は、ゴミじゃなかったのだ。

小学生の頃、毎日かぶっていたキャスケット。当時、「ちゃお」のとある漫画キャラクターがキャスケットをかぶっていたのに影響されて、お母さんにねだって買ってもらった。気に入って、毎日どこへ行くにもかぶっていたけれど、頭のサイズが次第に合わなくなった。でもデザインは悪くないし、少し無理をすればまだ入るから、カバン掛けの一番上に掛けておいた。

月日が経っても、そのキャスケットにふたたび頭を収めることはなかった。あれをかぶっていたときに感じた、ちょっとおしゃれなおねえさんになったような気持ち。あれをかぶりはじめたのをきっかけに帽子が似合うのが分かって、帽子が好きになったこと。お母さんが仕事で忙しい合間を縫って探してきてくれたこと。全部大切な思い出だった。だから、「でも、もう今はかぶらない」キャスケットを置いておくことに、意味はあると思いこんでいた。

 

だけど、もういらない。使わない。

 

ゴミというと聞こえが悪いが、ゴミとはいわば不必要なモノだ。不必要とはそれを使うか使わないの話ではなく、「いまはもう要らない」と思うかどうかで決まる。では何を基準にそう思えるようになるのか。それが2017年のわたしにとっては、「いま楽しい気持ちになれるかどうか」だった。

 

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1月4日の観測 人間が暮らす部屋らしさが増した

 

 

 

― アップデートに物理的空間を寄せていく

 

ありきたりな言い方かもしれないけれど、大切だと思うものや人、価値観なんかは、けっこう頻繁にアップデートされている。一年前の自分が大切だと思っていたものを思い浮かべてみようとしても案外思い出せないし、いまの自分が変わらずに大切だと思っているものは、「どう大切にするか」というやり方の部分が変わっていることも多い。誠実さとか努力とか、抽象的な概念であればスペースをとらないけれど(でも心の容量は確実に食われているので、いまの自分に不必要な概念はどんどん捨てていったほうが楽だ)、いかんせん思い出の品は部屋の容量を物理的に食っていく。アップデートは気づかないうちに終わっていることのほうが多いので、それにあわせて数ヶ月に一度は部屋のなかのモノを見直したほうが良いのだなと思った。古い皮膚が自然と剥がれるように、「もう必要ではないもの」は、きっと毎日少しずつ増えている。そしてわたしたちは選ぶことができる。見逃して隠すか、捨てるか。

 

「隠さないようにかたすこと」。これはここ数年のわたしの人生において得られた発見のなかで、けっこう大きかった。

 「隠さない」とは具体的にどうするかというと、

 

・部屋の中に「隠しやすい陰」をそもそも作らない。隠しやすい陰には何も置かない

・部屋のすべてのものが見渡せる範囲にあること

・見渡せない場所(引き出しとかタンスの中)は、「週一で使うもの」しか置かない

・水着、湯たんぽなど季節によって使う頻度が異なるものは、立てて収納する→ 一目でそれが何であるかが分かるようにしておく

・社会的に必要そうな思い出(卒業証書とか)と、ぜったいに捨てられないもの(おじいちゃんの形見とか)だけは「両腕に収まるだけ」というルールのもと収納する

・借りたままになっているものはきちんと返す

・壊れてしまったものは「即修理」か「即ゴミ袋」のどちらかにする

・手紙や写真は吟味して、それぞれ一冊ずつアルバムを作る

 

「隠さない」は案外難しい。「いつか使うかも(でも本当に使うの?)」や「けっこう大切だったし(もういいんじゃない?)」と判断を迫られても、結局それは未来か過去の自分が判断すべき話であって、いまの自分が自信を持って判断できることはなかなか少ない。だからこそ、「いまこれで楽しめるかどうか」という基準だけでモノを捨て始めたのは、思い返せばけっこうナイスな判断だった。

 

年の瀬手前辺りから少し身体を壊したりして、ずるずると精神も崩れて、人間関係の破綻も起こったりして、「今日一日を生きるのにせいいっぱい」「朝7時に目を覚ましただけでえらい」「大学に行くための電車に乗れただけですごくえらい」「延滞せずに本を返した。めちゃくちゃえらい」「呼吸し忘れなかった。ファビュラス」「グッド・ルッキング・ガイ!!!」とえっちらおっちらしているうちに、「今日一日をどうするか」がとても大切になった。それまでそんなことを思いもしなかったのに。起床した瞬間、本日の手持ちカードがどんなにダメでも、どれだけ上機嫌に一日を過ごせるか。それだけが関心のすべてになった時期があった。だから今回の大掃除もとい片付けは「いま」を基準に為せたのだと思う。アップデートだ。そして気持ちのアップデートに物理的空間を寄せるように行動できたのも人間力のアップデート。我ながら御見事である。

 

 

 

2017年、悪くないスタートです。みなさまも幸いの多い一年をお過ごしください。