きみのお祭り

死ぬまで盛り上がっていけ

「楽しいままで終わりたい」で、終わったのは何なのか

3年前、「楽しいままで終わりたい」という手紙を遺し、校舎から飛んだ中学生の子がいた。その子は亡くなった。

わたしは彼女の遺した言葉について、長いあいだ何も言うことができなかった。「楽しいままで終わりたい」は正しくも聞こえ、間違っても聞こえた。しかしその「正しい」と「間違っている」という感覚で指すところの正しいと間違いが何なのか、この感覚はどこからどうして生じるのか、それがどうしても自分のなかで掴みきれなかった。

けれども昨夜、寝入り端にふとことばがおりてきて、「やはりあの子の言ったことは違うのではないか」と思った。

「楽しいままで終わりたい」って、あなたはそもそも、始まりたくて始まったわけではない。始まりたくて始まったわけではないあなたが、「終わりたい」で終われるはずがなかろうに。

では、「終わりたい」といってあなたが終わらせた(とあなたが思っている)のは、いったい何なのか?

あなたの肉体は生命活動をやめた。同時に、肉体を通してそこにあると「見えていた」あなたの精神は、表れる肉体が動かなくなって、見えなくなった。

それのいったい、何が「終わり」なのだろう?

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始まりたくて始まった命はひとつもない。わたしたちは「生まれよう」という意志をもって生まれたわけではないのだ。

であれば、終わりたくて終われる命もひとつもない、ということになる。どう始まったのかわからないはずの命を、どうして始めたわけでもない自分が終らせられるだろうか。

けれども事実、人は死ぬ。肉体が生命活動をやめ、その人の「心」と呼ぶべきものは、呼びかけても、生きている人に届くかたちでは応えてくれなくなる。

 

であれば、人が 死ぬ というのは、いったいどういうことなのか。

 

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多くの人は、「わたし」が「命」を「所有している」と思っている。自分は自分「の」命の主人である。命を持っているから、生きてこの毎日を過ごしている。

けれどもほんとうは、「命」が「わたし」を「所有している」のだとしたら?

「わたし」というこれが、命によって表れている現象だとしたら?

わたしがいま生きている時間というもの。わたしの「わたし」という在り方。それらが命の在り方のひとつだとしたら?

わたしを通して為されているのは、わたしではなく、命のほうだとしたら?

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この世に、このときに、この身体で、この心で、この生で生まれようと望んだわけではない自分が、ここにこうして生きていることを、わたしたちは「望んで生きているのだ」と頭から信じ込みすぎてやしないか。死にたきゃ死んでいい、ということではない。その生きる死ぬということが「自分のものである」という思い込みが危ういのだ。

どこからどう始まったともわからないこの生が、どう終わるかも、そもそも終わるかどうかすら、いや、始まりというものを持つかどうかすらわからないこの生が、わたしというこれを表していることの意味について、考える必要がある。