汽水域

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諦めが生む飾らなさ/相澤義和『愛情観察』レビュー

相澤義和さんの写真集『愛情観察』を買った。ものすごく良かったので、感想を書く。

 

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撮影スタッフとして参加したブックフェア「ポトラ」に、この本の出版元である百万年書房も出店していた。ブースで『愛情観察』を手にとって、数ページめくる。よくある女性のスナップ写真集かと思ったが、一枚一枚が強烈に目に焼き付いて、像がくっきりと立ち上がってくる。なんだこれは、と思った。ちょっと怖くなって、すぐに閉じた。

 

「仕事が一段落したらまた来ます」と言って持ち場に戻ったものの、レンズを覗いても、会場を歩きまわっても、あの写真集で見た人々の表情の一つひとつが頭から離れない。居ても立ってもいられなくなり、結局1時間そこそこでブースに戻ってその場で買った。

 

帰ってきて、スープを作って食べて、『愛情観察』をひらく。すごい。ほんとうに、すごかった。ページをめくればめくるほど、満ちと渇きが同じスピードでせり上がってくる。矛盾しているようだけど、そうとしか表現できない。見たい、もっと見たい。満たされたいからなのか、渇いてしまうからなのか、わからないけれど。途中から涙が止まらなくなる。

  

写真集を見ながらこんなにもボロボロ泣いたのは初めての経験だった。初め、どうして自分が泣いているのかわけがわからなかった。被写体たちが美しかったから?写真が良かったから? どっちも違う気がした。被写体となっているのは、ほとんどが街によくいるような女の子たちばかりで、表情や体型や身長、ポージングなども、文字通り「モデルらしくはない」写真が多い。フィルムカメラで撮られたような味のものや、ぶれているもの、光りすぎたり、あるいは暗かったり。何よりも彼女たちの裸の胸や下着が丸見えになっているものも多く、そうした表現が苦手な人が見たら「うっ」となるようなものが目立っている。

 

もう一度、辿ったページを見返す。しばらく写真たちを眺めて、また泣く。涙がこみ上げる瞬間、そこにあったのは「わたしだって、過去の恋人たちの前でこんな顔してみたかった」「こんなふうに残されてみたかった」という思いだった。

 

女の子たちは、自由だった。パンツ一枚でベッドから転げ落ちてお尻が丸見えになっていたり、歯をむき出しにして笑ったり、だらしない格好で毛布にくるまったり、変な顔をしてみたり、夜の住宅街で塀によじ登ってスカートを捲りあげたり。どれもが、その人自身を余すところなくその人自身だった。彼女たちは誇張せず、てらいなく、もちろん恐れもなく、ただただ単純に楽しそう。アンニュイな表情や扇情的な構図の写真がときおり混ざっているけれど、それらもまたモデルとして用意された表情ではなく、その人の中身そのものが無防備にさらけ出されていた。

 

自分のナマの顔を真正面から見ることは絶対にできない。鏡の前では自然と口元に力が入り、目を心持ち大きめに開いてしまう。カメラを向けられれば尚更そう。だから、自分が普段どんな表情をしているのかを知るのは非常に難しい。スマホで撮られたふとした瞬間の写真を見て「わたしってなんて無愛想な顔なんだろ」と凹んだ経験のある人も多いのではないか。カメラを向けられるとき、あるいは恋人の前では、表情のどこかしらに少し力が入って「見られる用の自分」が自然と出来上がってしまう。

 

『愛情観察』でこちらを向いてさまざまな顔をする女の子たちは、誰もが飾らない。家族や本当に気の許せる人の前でだけ見せるような、気の抜けた、だからこそうつくしい、その人だけのかんばせ。ただただ楽しそうで、何も意図せず、どこへも志向しない。それは、自分がかつての恋愛の中で、口では言えなかったけれども強く求め続けたものだった。飾らない、そのままの自分自身でいいと心から思えること。その裏にあるのは傲慢さではなく、「こう見せたい」「こうありたい」という無駄な執着を離れた、「どう見えてもいいや」という気持ちの良い諦めと自信。自分が自分のままであっていい。よそ行きの顔や、見せたい顔を意識しなくていい。何の気兼ねもなくそうありたかったし、そんな姿を好きな人には見せたかった。

けれど、自分にはそれがどうしてもむずかしかった。自然なままでありたいと強く願いながら、そうあるための甘え方がまったくわからなかったから。いつも素敵でありたかった。その結果、ねじれが溝になりうまくいかなくなってしまった関係がいくつあったことか。

 

『愛情観察』に写る女の子たちには、「わたしはわたしのままでじゅうぶんだ」という気持ちの良い諦めと、過不足やねじれのないまっすぐで謙虚な自信にあふれている。だから素敵だ。どこを見ても生ものだらけ。本物だ。生ものに触れてみたい人は、ぜひ手にとってひらいてみてほしい。