きみのお祭り

死ぬまで盛り上がっていけ

拝啓 健常な社会様 病をお許しいただけますでしょうか

最近、喘息、過換気症候群不整脈という診断が下された。数年前からどうにも喉と胸のあたりがおかしく、昨年の夏頃からいよいよ深刻っぽくなったので、いろいろなところを検査した。結果、心的なストレスに極度に弱くそれが体に表れやすいことと、肺の機能が低いこと、不整脈がよく起こることがわかった。体質なので、一生の付き合いになるという。

日常に大きな支障があることはそれほどないけれど、と調子が悪いときはうまく呼吸ができなくなるし、咳がとまらない日もある。仕方ないので、付き合うしかない。病は敵としてあるのではなく、わたしの一部なのだから。

さて、コロナウイルスである。どこに行ってもマスクはないし、もはやスピリタスやらあおさやらの品薄が始まっているのを見るとちょっと笑ってしまう。いや、笑い事ではないんけど。歴史の教科書懐かしの1ページが令和によみがえる新鮮さよ。

しかし喘息患者、困ってしまった。このご時世、電車の中で少し咳込みでもしようものなら、露骨に嫌な顔をされることもある。せめてマスクをしろよと。いや、ごもっともです。でもね、マスク、ほんとにないんです。うちから徒歩30秒のドラッグストア、開店30分前から並ばないと買えないんです。でも、共働きなのでドラッグストアに朝10時に並んでられないんです。

咳はいったん出始めるととにかくとまらないので、通勤特急の中でコンコン始まった日なんぞにはほんとうに肩身が狭い。苦しさもさることながら、視線の痛さよ。

 

そんなことをツイッターでつぶやいたら、「こんなのがありますよ」とおしえてもらった。

 

www.fnn.jp

 

ぜんそくマーク。うつりません。これをつけていれば、自分の咳は喘息の咳だから周囲には迷惑をかけませんというしるしになるという。

なるほど、便利である。便利であるが、呆然としてしまった。喘息であることは、わざわざそれを公表して免罪されにいかねばならないのか、という気分になった。患っている側が病というきわめて個人的な事柄を公表し、「迷惑をかけません」と宣言しなければ居ることを許されないような、そんな風潮があるということ自体に暗澹たる思いがした。

 その咳が喘息なのかコロナなのか、わからなくて警戒する本能は痛いほどわかる。けれども患う側に、健常が正義の社会様を安心させる自助努力を求めるというのは、ちょっと違うんじゃないかと思っている。これは喘息に限らない話。

 

***

 

患う側だから努力が免除されるべきだと言っているのではない。しかし患う側だから努力をすべきだともまったく思わない。反対に、健常側だから努力をすべきとも、健常側が社会のスタンダードであるべきとも思わない。

グラデーションしているはずの病者(あるいは障害者)と健常者のあいだには、だいたいいつも溝が生まれる。それは、両者のあいだで起こる問題が「健常な人とそうでない人の問題」とされ「わたしたちの問題」にされにくいからではないかと思う。

個人はすべて異なる存在である。ゆえに喘息患者1の喘息と喘息患者2の喘息は異なるものだし、アスペルガー1とアスペルガー2の抱える障害は異なるものである。症状や診断名はあくまでも

これは病む側や抱える側の話だけでなく、健康で健常側の人々も同様である。あの人とこの人は異なる人であり、彼らが病や障害にどのような視線を向けるかは、あたりまえだがまったく異なる。

患者や障害者がひとりひとり存在するように、健常者もまたひとりひとり存在することは、近年特に忘れられているように感じられる。両者の間に生まれる問題は、「非健常と健常」の対立構図ではなく、どこまでも「わたしとあなた」ひいては「わたしたち」でなくては、本質的な共生はむずかしい。微視による解決こそが巨視の共生につながっていくのではないか。

 

存在はする/しないの2択でしかありえない。だったら存在する者同士、うまくやっていきましょうや、と思う。病む側、抱える側の人間として。