きみのお祭り

死ぬまで盛り上がっていけ

反進歩主義の話

はたして欲張る必要があるのだろうか。毎日同じことをしていても、全然悪くないと思う。毎日できる限りの、したい限りのことをしたいようにして。けれどもしていることに手は抜かず、自分に後ろめたさを覚えないように。それだけを繰り返していれば、自然とそれが積み重なって、気が付けば遠くに、あるいは高くにいられるのではなかろうか。でも、その点は目指したものでもなければ、桃源郷でもない。ただの一地点である。わたしたち人間は、とかくあらゆる意味付けをしたがってしまう。

上昇しようという意欲を、ずいぶん前に忘れてしまった気がする。理想や目標を掲げて達成することや、そこに辿りつくために努力を重ねるという世界観を善としてしまうと、そうあれない自分を許せなくなってしまうから。苦しかったなあ、がんばっていない自分と生きていかなければならなかったこと。

昨日の自分よりもできることがひとつ増えていたら、うれしい。いままでずっとやっていることが、いままでよりももうすこし丁寧にできるようになったら、それもうれしい。それくらいのテンションで生き始めるようになってから、がんばるという行為の価値がよくわからなくなった。

意図せずして身を投じた世界や手にすることとなったものが、想像したこともないほどの豊かさをもたらしてくれたこともあれば、求めてやまなかったものを手に入れたのに、何も埋まらず、さらなる渇きを呼び込んだだけということもあった。だから、何かを目指したり欲したりすることが、ある時期からけっこうどうでもよくなってしまった。いまここに流れ続けているこの時間を生きているだけで精一杯で、でもそれだけで十分な気がしているのだ。

違和感と共感の話

当たり前だが、違和感と共感は違う。なんか変だな、ちょっとおかしい気がする、という感覚と、わかる、正しいように思う、という感覚。

しかしこれら、ベクトルが違うだけで、実は同じ気付きをもたらすのではなかろうか。すなわち、「自分がどのような常識や良心を持ち合わせているのか」ということに気が付く機会である。人は、自分の常識や良心にそぐわないものに遭遇したときに違和感を覚え、嵌るものに遭遇したときに共感する。この二つの感覚は、己の物差を知るための手がかりである。

違和感は放置しているとだいたいうれしくないことにつながり、共感は納得や感動を呼び込む。大事なのは、どちらをよりたくさん感じる人生がよいということではなく、どちらかを感じたときに、何を自分が是とし非としているのかに気づくことなのだと思う。感の瞬間を目撃せよ。認識された認識は自らの手で変えてゆくことができる。柔軟であるというのは、たぶん、そういうこと。

スキー旅行の話

夫にスキー旅行をプレゼントしてもらった。人生通算3度目のスキー。某雪国で丸2日滑り倒した。

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雪国の朝

夫は普段ほとんど運動しない。オフの日は一日部屋にこもってカメラをいじったりお笑いを見たりしている。というか、日常生活の中で走っているところすら見たことがない(急ぐのが嫌いだから)。だから今回の旅行も正直、「この人はスキーを楽しめるのだろうか…」と半信半疑だった。と言いつつ、「あなたとスキーに行きたい!」と言ったのはわたしなのだが。

しかし懸念はまったくの杞憂だった。夫、スキーめちゃくちゃうまい。聞けば小学生から高校卒業頃まで、毎年家族で年に一回はスキーに行っていたとのこと。結婚三年目にして知るニュー・インフォメーション。十数年ぶりにもかかわらず上級者コースもスイスイ滑る。何をやらせても器用な人である。

かたやわたしは、レンタルショップで板の履き方と脱ぎ方を思い出せただけで一山越えた気分だった。最初の数時間はブリキのおもちゃみたいにぎこちなく、数メートル滑り落ちては脇の雪に繰り返し突っ込み、バグを起こしたRPGゲームのキャラのようになっていた。

しかし夫、教えるのもめちゃくちゃうまかった。しかもわたしと体格がほぼ同じなので、後ろにぴったりくっついて、動きや体の使い方をひたすら真似していたら少しずつ自然に滑れるようになり、最後はゲレンデの中級者コースを難なく全制覇できるまでに成長した。お互いの滑っている姿を動画に撮って見てみたら、滑り方が瓜二つで面白かった。

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雪の壁は高かった

体は、覚えたことを決して忘れない。だからこの先わたしは、たとえ足腰が立たなくなっても、夫がいなくなってしまったとしても、スキーの滑り方をずっと忘れないと思う。スキーを気持ちよく滑れるようになったこともうれしかったが、こういうかたちで夫との思い出が増えたことが何よりもうれしかった。すてきなスキー旅行だった。ありがとう夫。

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余談

アルツハイマーを患っているこの女性は、かつて第一線で活躍していたバレリーナだったそう。"白鳥の湖"を聴かせたところ、彼女のなかの白鳥は50年の時を経てふたたび目を覚ました。この動画、何度見てもあまりにうつくしくて、見るたびに涙がこぼれてしまう。体はやっぱり忘れないものなのだ。

誕生の話

2022年2月4日、28歳になった。

生き死にはほんとうにわからない。昨年の暮れに突然逝ってしまった祖父。その前の前の年の大雪に突然さらわれてしまった犬。出生が意志に因らないように、死もまた意志のもとにない。人は自死を選べるなんて嘘だ。肉体を破壊してその機能をとめたとて、魂の行方は誰も知らない。わたしたちが想像する生き死になど、「生きている」側の脆くはかない認識の、安易な限界である。つまるところ、わたしたちは生と死について何ひとつ知ることができない。それでも、選んだわけではないこの身体と心で、選んだわけではないこの場所で、いつだってそうとしか有り得ないよう配列され、交流し、現象として顕れる、わたしと名付けられた生。望むと望まざるとにかかわらず、誰もがいつだって(眠っている間ですら!)生を志向し続けている。生きていることは、すべてが大いに不思議で奇跡的だ。

神と呼ばれるそれは認識の対象ではなく、実はわたし自身であり、同時にすべての命がそうであること。宗教や狂気を帯びずとも、神を直感することは誰もが常に可能である。その直感は外界ではなく、常に「ここ」にあるこの存在に向けられている。知性で分け得るものは知識でしかなく、存在には何ら関係がない。何度考えても、結局はすべてがそこに帰結してゆくように思われる。足の裏に土を感じる。目を閉じて沈黙を見聞きする。すなわち、何もしない。28年目の「生きる」を、そうやっていま、わたしは生きている。

ミケル・バルセロの話

初台のオペラシティアートギャラリーで開催しているミケル・バルセロの展示へ。恩師の先生がカタログの論文を翻訳しているとのことで、チケットをいただいた(先生、ありがとうございます)

ミケル・バルセロ展 | 東京オペラシティ アートギャラリー | 美術館・展覧会情報サイト アートアジェンダ

※ 以下、展示写真や内容のネタバレあり。撮影OKの展示で写真を撮ることはあまりなかったけれど、今回の展示は大変気に入ったのでいつもよりかなり多く撮った。

 

展示に触れた数時間で、バルセロのことがとても好きになった。彼の作品はどれも生命力の瑞々しさに満ちている。この感想を書き終えてから美術手帖のバルセロ展の紹介を読んだら「生命力」とか「瑞々しさ」という言葉が何度か出てきていて、ああ、やっぱりそうだよなあという気持ちと、先を越されたようでほんのり悔しい気持ち。

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今回一番好きだった作品のひとつ。よく見るとたくさんの動物がいる。「たしかに食卓ってこういうことだよな」と思い出す。色遣いやタッチの激しさにより一瞬グロテスクに感じられるかもしれないが、実物は大きな宗教画のようで、ずっと見ていると心がしずかになる。

バルセロの作品からは、命に対する彼の深い敬愛を感じられる。対象にまなざしを向け慈しむような愛し方ではなく、彼自身がそのなかに飛び込みともに燃えるような、そういう愛し方をしている思う。

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バルセロは絵画のほかに陶器や彫刻も作る。「人間は土から生まれて土にかえる。だから僕は土を使って陶器を制作することがとても好きだ」というようなこと(うろ覚え)を言っていて、やっぱりこの人は、命というものに強く惹かれているのだなと思った。

陶器もよかったが、バルセロの彫刻がとても好きだ。削り出されたそれはたしかに命をかたどっていて、粗く、やわらかい。触れれば揺らいで崩れそうな、それでいて、目に見えるかたちを失ったときに初めてその命のかたちが顕れるのではないかと思われるような、不思議な魅力を湛えている。

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カピロテ山羊が好きすぎて持ち帰りたくなった。
人間の罪を背負わされているのか、それとも彼は人間なのか。

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バルセロは創作物に対してかなり自由にいろいろなことをやっている。たとえばこれは一見平面に見えるが、魚の部分だけ油絵具と繊維を混ぜて立体にした作品。魚が強調されることで、水面の存在感がより強まる。

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ほかにも、キャンバスから太く長い木の棒が突き出ていたり、砂と小石の上に絵具が重ねられていたりと、アイデアにあふれた作品が多い。なかには、滑車で吊るして面を床向きにし、キャンバスに粗い繊維を混ぜた油絵具で描くことで見る位置によって表情が変わる作品なんかもあった。解説を読むたびにチャレンジ精神とアイデアの方向がすごすぎて笑ってしまう。「とりあえず思いついたことは全部やる」「試行錯誤のなかから水脈を見つけ出し、自分の正解へと近づけていく」みたいな彼の姿勢がとても好きだ。バルセロのアトリエには、日の目を見なかった作品の赤ちゃんたちがものすごい量の積み重なっていそう。

 

彼の創作活動は身体性と深く結びついている。映像で流れていたためここに資料はないが、たとえば横は100メートル越え、縦は脚立を立てないと届かないほどの高さの窓いっぱいに茶色の絵具を塗りたくってモップで絵を描き、窓を透過する光をアートにしたり、厚い粘土の壁をキャンバスにして、棒で殴ったり全身で突っ込んでいってめちゃくちゃにしたりする(最後は貫通して壁の向こうに落ちて消えていった)(なんなんだ)。バルセロの制作は、遊んでいるようで、踊っているようで、ときとして歌っているようでもある。あの運動の過程と集積から彼の作品が生まれるのは、なんとなく腑に落ちるところがあった。

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若かりし日のバルセロはめちゃくちゃカッコいい(いまもカッコいいです)

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2階の展示は水彩画やポートレートが中心。アフリカで描かれた水彩画がどれも好きだ。色使い、コントラスト、絵具の滲みを主に構成されたそれらは、写実的な絵画よりもずっとその土地の空気を感じさせる。

なんだろう。バルセロは、絵具ひとつ、粘土ひとつで、その作品が置かれる場の空気を変えるのがものすごくうまい。そういう意味で、彼の水彩画と彫刻の作りは少し似ているかもしれない。

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もうひとつ強烈に目を惹いたのが、展示の最後のあたりに並ぶこのシリーズ。バルセロの作品に重なる命のイメージが真っ直ぐ飛び込んできて、彼の愛が、見る側の身体の奥底で深く鳴るような心地がする。

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この展示を見に行った数日後に山に登りに行った。
木々や土に触れるたびに、作品をたくさん思い出した。

総じて、すばらしい展示だった。灯火に燃える火を分けてもらったような体験だった。作品からその作家を好きになることはこれまでそう多くはなかったけれど、バルセロのことをもっと知りたい。会期中にもう一度足を運んでみようと思う。

身体のつくりと踊りの話

趣味でサンバを踊っている。これがけっこう楽しい。最初は「月に1回レッスンに行ければ」くらいに思っていたが、気づけば毎日なんとなくステップを踏んだりリズムを口ずさんだりするようになっていて、すっかりサンバを身体に飼うこととなった。

サンバというとお色気~なイメージがあるが、実のところかなり原始的なダンスで、格闘技の要素も混ざっている。もちろん上級者が踊るとめまいがするほどセクシーだが、それはサンバがセクシャルな媚態を振りまくダンスだからではなく、重力や遠心力という物理法則を肉体に投射するダンスだからだと思う。

サンバは楽しい。しかし悩みがあった。本場のおねえさまがたのように尻を振りたくとも、まったく振れないのだ。

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上級者のお尻は本当にすごい。プリプリを通り越してブリブリである。クレヨンしんちゃんに「ぶりぶりざえもん」というキャラクターがいるが、サンバの尻は文字通り「ブリブリ」なのだ。両尻(?)にバスケットボール大の水風船でも入っているのではないかと思われるほどの揺れっぷりである。

で、この「ブリブリ」がどうしても再現できない。動画を撮って何度フォームを確認し修正しても、腰は回っているのに尻が振れない。どうやったらああなれるのかわからず困り果てていた。

何ヶ月も練習を重ねたがダメで、とうとう講師のフランシスに相談した。尻が振れない、ブリブリになれない、どうすればできるようになるか、と問うたところ、思いがけない答えが返ってきた。

「ああ、きみのお尻ではああはなれないよ」

「どうして? フォームや体の使い方の問題? それとも力の抜き方?」

「いや、きみのお尻はああいうサンバを踊るにはあまりにも平らなんだ」

ハッとした。そう、わたしはもともと登山が趣味であるため、なるべく脂肪をつけないよう、山を登るのに最適な筋肉をつけられるよう、普段から下半身のトレーニングを欠かさない。それか!それなのか!と妙に納得した。

「ということは、わたしはサンバに向いていない?」

「全然そんなことないよ!きみのサンバは美しい。身長や手足の長さをうまく生かしているし、男でも女でもないような、ふしぎなサンバを踊る。すごく素敵だよ。ブラジル人はみんな肉付きがいいから、ああいうサンバになる。でもサンバに正解はない。きみはきみのサンバを踊ればいいんだ」

フランシスにそう言われて、すとんと腑に落ちる感覚と、込み上げるうれしさがあった。そう、ほんとうにそうなのだ。わたしはわたしの身体のままで、わたしのサンバを踊ればいい。ブリブリのサンバが踊れなくとも、わたしはサンバが大好きだ。

いつかリオで踊ってみたい。パンデイロとホイッスルのリズムに血を沸かせ、バスケットボールみたいな尻を持つサンバダンサーたちとぶつかりあって、ブラジルの大地で踊り狂いたい。

ルールの話

最近、仕事で手引きみたいなものをいくつか作るうちに、「ルールはどこを向くべきなのか」についてよく考えるようになった。「~してください」  「~しましょう」「~するようお願いいたします」という文字列を繰り返し打っていると、ふと「この言葉はいったい誰に響くんだ?」という気持ちになってくる。

ゲームのルールと集団のルールは違う。前者はそのゲームを成り立たせる構造そのものである一方で、後者はそうとは限らない。集団のルールは共同体の構造を規定するだけでなく、目指す秩序や理想的なあり方を示すために立てられる側面が大いにある。つまり、"had better/must(n't)"と"I'd like you to"が混在するのだ。これがなかなかむずかしく、文章にすると両方が「~してください」  「~しましょう」「~するようお願いいたします」になり、伝えたいことがぼやけるし、くどく、口うるさい文章になる。

集団のルールを不自由に感じる人、すなわち、その集団が目指す秩序とは相容れない価値観を持つ人に対して「これこれのルールを守りましょう」と言ったところで、言われた側は不自由さを感じるだけだし、「よーし、守るぞ!」という気持ちになるわけでもない。どちらかと言えば「めんどくせーな」である。一方で、自然体のままその場所の秩序を保てる人や、指示や強制をされなくとも望ましい振る舞いができる人には、そもそもルールが必要ない。
となると、一体ルールというのはどこを向けばよいのか、何を目指して明文化すればよいのか。「してほしくないこと」だけを羅列した手引きは、堅苦しくて息苦しい。「してほしいこと」だけを羅列した手引きは、押しつけがましく暑苦しい。両方を取り入れた手引きは、あいまいでくどい。非常に悩ましい。

求心力のあるルール。そこにあるだけで集団へのロイヤリティが自然と高まるような、各人のなかにある倫理を引き出せるような、そんなルールを明文化したい。それは、「してほしくない/してほしい」という文法とかけ離れたところにあるのかもしれない、と思い始めている。