汽水域

海水と淡水のあいだ

200608_diary

最近、日曜日にその週にかならずしておきたいことをノートに書いて、次の日曜日にそれがちゃんとできたかどうかを確認している。5つ、やりたいことを書いたとしたら、そのうちのひとつは〇、3つは△〇、ひとつはバツになっている。

バツのつく作業はだいたい、片付け。部屋の片づけの何がだるいって、いるものといらないものを判断するのがだるい。判断と言っても、おそらく部屋の中身の95%はいらないものだが、そのうち5%を見極めなきゃならないのがだるい。「いらない」と判断するまでの心の負荷がだるい。判断は頭でするものだが、思い出には心がともなっていて、心は頭の足を引っ張るのだ。すごく大事な思い出を経てきたものに対する敬意はいいとしても、感傷はモノを捨てるときただただ邪魔になる。その大事な思い出によっていまのじぶんがあるのだ、わたしこそが思い出の塊である、という無理やりの納得から、思い出の品々をゴミ袋に入れるまでの負荷の大きさよ。ああ、だるい。

 

アメリカで、アメリカ国旗を車が次々に轢いている動画が炎上していた。「信じられない」とか「これをやっている奴らはアメリカ人じゃない」とかいろんなコメントがついているのを見て、人間はほんとうに観念のなかに生きているのだなと思う。国旗を踏みにじることの是非とか、品位とか、そういう議論は措くとして、そう、国旗を車で踏んだところで、それは結局、布をゴムで踏みつけただけにすぎないのに、そこにはものすごく何重もの意味とか感情とか意志があって、それにみんなが怒ったり興奮したりしている。よく考えるとすごいことだ。かくいうわたしも、たとえば犬を蹴り飛ばしてる人なんかがいたとしたら、ものすごく怒ると思う。犬が、蹴り飛ばされた、だけ、なのに。

 

自分の「しゃべりことば」に愕然とする。たまたま録音した自分と他人との会話を聞いて、なんと遠回りで、からっぽで、うすっぺらい言葉なんだろうと、膝の力が抜けてしまった。「かきことば」に自信があるわけではまったくないが、「しゃべりことば」がそれ以上にひどい。でも、昔、ふざけて「貝になりたい」と一日中言っていたら、その次の日から高熱が出てのどがはれ上がり一週間ほどほんとうにしゃべれなくなったことがあるので(たしか小学3年生の頃だ)、もうそういうことは、言わない。言霊ってやつはいる。できれば「しゃべりことば」にも「かきことば」にもひとつひとついつでも魂を込めたいが、ふと、魂とは込めるものではなく、生きているそれだけでこもってしまうものではないか、と思った。つまり、込めようがなく、隠しようもなく、それがそれとして在るだけでそこに宿ってしまうのだから、まあつまりは、善く生きるしかない。

 

かつて住んだ土地を愛せなかったことについて一か月近く書きっぱなしの記事を放置している。発酵しないうちにかき混ぜなきゃならんな。